100年前の大磯 関東大震災特集9 川と橋

更新日:2023年12月01日

大磯町には東側に花水川(金目川)という大きな川が流れています。また、隣の平塚の東側には相模川(馬入川)が流れ、関東大震災の時は橋が倒壊したことにより、交通が途絶えるという大きな問題が発生しました。今回は、橋の被害とその対応、そして復興についてご紹介します。

橋の被害状況

大地震の発生により、大磯周辺の橋梁は大きな被害を受けました。特に被害が甚大だったのが、相模川に架かる馬入橋(国道1号線)です。その他にも、国道1号線では花水橋(花水川)・塩海橋(葛川)・押切橋(中村川・押切川)が一時不通になり、町道の富士見橋(統監道)や町屋橋(血洗川)も修理をしたという記録が残されています。また、古花水川(花水川の旧河道)の小川に架かっていた高麗橋も、破損した様子を写した写真が残されています。

馬入橋(国道1号線)

馬入橋は、相模川の下流、馬入川に架かる橋です。江戸時代は、幕府により主要河川に橋を架けることが禁止されていたため、馬入川では渡し船が利用されていましたが、明治になり木桁橋が架設され、馬入橋ができました。この橋は震災が起きた時、ちょうど鉄筋コンクリート製にする架け替え工事をしていました。その基礎工事中に地震に遭遇してしまったのです。

注:当時の馬入川の流れは、その後の河川工事等により、現在とは異なります。

前年に始めた工事はすでに両岸の橋台と左岸の橋脚6基が完成し、橋脚の基礎となる井筒も42本据付けを終了して、一部は川底へ沈める沈下工事も終了していました。しかし、地震によって橋脚などは全て傾き、沈めた井筒も浮き上がってしまいました。後年の検証では、平塚地区では、広範囲に地盤の液状化現象が起こっていたと考えられています。

警察は、平塚側の須馬村・馬入(現・平塚市馬入本町付近)の住民や消防組員らに、渡し船を運行するよう依頼しました(9月1日)。しかし、これは非常に危険を伴う行為だったようです。相模川上流では大規模な山崩れが発生しており、大量の流木が河口付近まで流れてきていました。川面が土砂や流木で覆いつくされている様子が、写真に残されています。

9月5日、静岡県から豊橋工兵第15連隊・京都府から京都16連隊の工兵が到着し、仮橋を架ける復旧工事を始めました。11日に仮橋は完成し、日中のみですが一般の人びとが通行できるようになりました。しかし、13日夜から激しい雨が降り始め、14日午前9時、川の水位が上昇して完成したばかりの仮橋は流されてしまいました。渡し船も危険なため中止されました。当時の天気図を見ると、大型の台風と思われる低気圧が、接近・通過していたことがわかります。

15日も豪雨は続き、水位は6尺余り(約1.8メートル余り)上昇し、倒潰していた鉄橋(鉄道)の残骸で流れが堰止められたため、その上流の水位はさらに上がり、午前11時頃には「このまま水位が上がれば堤防を越えて、須馬村全域が浸水してしまう」との急報が警察に届きます。

正午、とうとう水門が破壊され、平塚町新宿(現・明石町・見附町付近)まで水が流れ込んで来ました。その後も刻々と水位は上昇して堤防の高さと同じになり、堤防の3か所から次第に水が漏れ出します。警察、軍隊、住民たちは、総出で集めた空の俵で土のうを作り、必死に堤防の決壊を防ごうとしますが、深夜12時を過ぎても雨は激しさを増すばかり。夜通し警戒を続け、水位はさらに2尺(60センチメートル)上昇。堤防は決壊寸前となりましたが、明け方ようやく雨が止み、何とか持ちこたえて浸水地域の拡大を防ぐことができました。

17日、再び陸軍工兵隊が100人態勢で仮橋建設作業を開始します。22日午後1時、仮橋が完成し、通行可能になりました。

この後、馬入橋(全長450メートル)の本格的な復旧工事は、仮橋を架けた京都16連隊(平塚側から300メートル担当)と豊橋工兵第15連隊(茅ヶ崎側から150メートル担当)の工兵らによって続けられ、わずか半月後の10月3日に完了しました。短期間で完成させるための努力は大変なものだったようです。

現在、平塚側の馬入橋のたもと(下り車線脇)には、担当した京都第16連隊によって建てられた「陸軍架橋記念碑」があり、碑文で彼らの功績を称えています。

陸軍架橋記念碑

陸軍架橋記念碑

花水橋

金目川は、丹沢山系を水源とし、大磯町付近を流れる下流を花水川と呼びます。昔から河川氾濫を繰り返し、付近住民は水害に悩まされてきましたが、江戸時代に河川改修が行われて現在の川筋になりました。元の流れがあった場所は現在「古花水」と呼ばれています。

震災時、金目川の上流付近は地震の揺れで堤防の崩壊と川床の上昇が同時に起き、流域に広く浸水被害をもたらしました。一方で、下流にあった花水橋は一時不通になったものの、仮橋を設置したようで、9月9日には周辺道路の復旧も進み、二宮から大磯を経由して、平塚まで自動車が通れるようになっています。

助役日誌によれば、翌1927年(昭和2年)5月7日に、新しい橋の落成式が行われたことが記録されていますので、最終的な架け替え工事がここで終了したと思われます。

塩海橋と押切橋

塩海橋(しおみばし)と押切橋は、いずれも国道1号線上にある橋で、現在の二宮町と大磯町の境界付近を流れる葛川に架かるのが塩海橋、二宮町と小田原市国府津の境界を流れる中村川に架かるのが押切橋です。中村川は、河口付近では押切川と呼ばれています。

この2つの橋は、どちらも損壊して一時通行ができなくなりました。しかし、押切橋は9月5日に支援に入った静岡第34連隊によって復旧工事が進められ、11日午後6時に開通しています。また、9日には二宮―大磯間の道路が開通しているので、塩海橋も同時期に復旧されたものと思われます。

富士見橋・町屋橋

富士見橋と町屋橋は、大磯町内の町道にある橋です。

富士見橋は、大磯駅からJR東海道線沿いに西に伸びる町道幹13号線(通称・統監道)の途中にあります。また、町屋橋は、国道1号線(西小磯)から県立大磯城山公園第2駐車場に向かう町道幹18号線にあり、この地区を流れる血洗川(ちあらいがわ)に架かる橋です。

地震による被害の程度は不明ですが、富士見橋は1,000円の費用で架け替え、町屋橋は500円で改修したと記録されています。

次回は12月8日(金曜日)に更新します。駅と鉄道の被害についてご紹介します。

参考

鈴木昇『大磯の今昔』(九)、2000年

『大正12年関東大地震震害調査報告』第1巻、土木学会、1926年

『大正12年関東大地震震害調査報告』第3巻、土木学会、1927年

『大正12年大震災記念写真帖』

古地図コレクション5万分1図「写図(大磯)」国土地理院

「天気図」中央気象台、大正12年9月

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