大正12年9月9日

更新日:2023年09月09日

助役日誌

9月9日(日曜日)、午前8時30分出勤。

午前8時から仮事務所で玄米と半臼米を廉価で交換販売した。

午後になると、静岡県理事官の松村光麿氏から、玄米250俵(約15トン)、梅干1樽、ラッキョウ1樽、たくあん5樽が、機械船で大磯町に送られてきた。これらの救援物資の陸揚げと運搬のために、南北両下町の青年支団員と漁業組合の援助を受け、魚市場に預け入れた。

午後10時より大雨となり、天幕で宿泊している避難者は、苦労した。

午後9時頃帰宅。

大磯警察署の日誌

9月9日(日曜日)晴のち雨

証明書の交付
中郡長より在米調査をする官吏に、臨検証を交付してくれるよう依頼があったので交付した。

自動車の徴発
午前9時、管内の自動車23台すべてを軍隊で雇上げ、旅客の無料輸送を開始するために連隊長と協議し、決定した。正午より開始する。

電話の開通
午前9時、連隊本部及び中隊本部へ警察電話が開通した。

帰省する女工の保護について
震災当時、平塚町の相模紡績会社で働いていた女工は約1,200人で、その内900人程度は、いずれも東北や北陸地方の出身者であった。同社は当分復旧の見込みがないため、帰省させるよう申し出たものの、東京、その他、地方の治安がいまだに安定しておらず、途中、危険のおそれがある。そのため、帰省する女工には、会社から20名につき1名の保護者をつけ、かつ名簿を提出させ、これに保護依頼文を記し、出立前に、平塚警部補派出所前にて人員を確認し、注意を与えて出発させることとなった。本日午前8時、1回目の30名を一団として出発させた。

<保護依頼文の内容>
「記載の者は、当署管内平塚町相模紡績会社に女工として就業中、震災のため、今回いずれも冒頭に記載する地へ帰省する者です。ついては、途中、保護の上、帰省できますよう、 ご拝領をお願いいたします。なお、同行の保護者に不正や不都合なふるまいがないように、注意警戒していただきたくお願いいたします。
年月日 署長名
沿道各警備隊長・各警察官署長・各郡市町村長・鉄道駅長宛て」

米穀輸送の報
一両日中に大阪から相模紡績会社に米300石(約45トン)を帆船にて輸送するとの連絡があった。

物価調節
午前10時、須馬村(現・平塚市須賀付近)各区長・組長及び営業者を召集し、平塚・大磯両町と同様の物価調整について警告した。

鉄道省工夫の来磯
午前9時、大磯駅を中心とする鉄道復旧工事に従事する人夫・工夫250名が到着した。

掲示
午前9時に次の項目、その他について掲示を行う。

  • 大船・品川間の鉄道開通
  • 感染症予防
  • 竹槍、その他の凶器の携帯厳禁
  • 暴利取締り、流言・浮説取締りに関する勅令
  • 相模川及び酒匂川渡船の通過時間
  • 債権・債務に関する権利義務の勅令
  • 軍隊の出動

電灯の点灯
午前9時から柴崎巡査は、海軍火薬廠の電気工夫及び小田原電気会社大磯出張所主任ほか、工夫数名を引率して、大磯町山手・海岸方面及び大隊本部に電灯を架設した。

米穀の輸送及び町役場への引渡し
坂本刑事は、前日に大田・豊田両村より購入した玄米120俵(約7.2トン)を、大磯消防組員18名の応援を求め、自動車にて署に搬入した。この玄米は平塚町及び須馬村方面、大磯町において廉売する予定であるが、大磯町において廉売を開始することについて申し出があったため、113俵(約6.7トン)を一俵13円50銭にて(この玄米は、一俵15円で買入れたため、1円50銭安となる)、町役場の手にて廉売を開始した。

救助
午後1時、静岡県賀茂郡松崎町の者3名が、帰宅の旅費に困ったため援助を申し出てきたため、旅費を貸与した。

漁業開始の勧誘
午後3時から、平根巡査部長は流言・浮説に関する勅令を徹底するため、下町方面に行って示達に努めた。なお、漁業組合長を経由して一般漁業者に、至急出漁するよう改めてお願いした。

物価調節の警告
午後2時、吾妻村二宮において、大磯町や平塚町で行ったように食料品や日用品は、震災前と同一価格にて販売し、かつ売り惜しみをしないよう、各営業者を集めて警告した。

灯火用品の配給
海軍火薬廠から、以前に交渉したろうそく代用の原油70貫(約260キログラム)の寄贈があった。平塚警部補派出所前で配給した。

収容人員と炊き出し
夜に入り豪雨となったため、天幕張りの仮泊所に収容することができなくなり、やむを得ず劇場「大磯座」、署内その他に収容した。その人員は約180人、炊き出しは1斗8升余り(約30キログラム)であった。

警察部長の書面到着
本日正午、震災後初めて緊急勅令発布に関する警察部長の書面が到着した。これは上級官庁より来た最初の書面である。

交通その他の状況を謄写して配布
交通、その他の状況を知ろうとする者が多いため、次の書面を写して、各官公署・有志、その他へ配布した。

<謄写内容>
「本日中に得た情報は次の通りであるため、通知する。

  1. 当地方の交通状況:吾妻・国府・大磯・平塚間は、自動車開通。前羽村・国府津・小田原方面は、所々復旧して同様に開通。箱根山は徒歩、馬入橋より東は品川より大船まで汽車が開通。馬入橋より藤沢までは所々復旧して、自動車開通。大船に行くのには、藤沢より約1里(約4キロメートル)を徒歩、藤沢より戸塚まで自動車開通、汽車は戸塚には停車しない。
  2. 感染症の流行と予防:国府津付近に多数の腸チフス患者が発生している。東京・横浜は、腸チフス及び赤痢が流行している。飲食物は、煮沸し、汚物は決めた場所に埋めること。便所が壊れていた場合は、すぐに修繕して、ハエ、その他の媒介物の発生を防ぎ、発病予防に努めること。
  3. 物資の供給:食料の供給は、充分である。海軍火薬廠よりパラフィンの供給を得て、数日中にろうそくを製造して供給する予定。英国大使館及び海運省へ依頼したガソリン油、 釘類及び灯火用品の供給を受ける見込みあり。電灯は、小田原電灯にて点灯の見込みがない時は、火薬廠に依頼して、2戸または3戸ごとに1灯をつけるよう計画している。
  4. 中村理学博士の談話:午前8時、中央気象台の中村博士は、随員と共に来署し、大磯町及びその付近を視察され、次の談話をされた。震源地は、大島西の方の海中で、当地や房州地方は 地盤が著しく隆起し、横浜・東京方面はやや沈下した。つまり、大磯町・平塚町で海水が減退したのは、地盤が隆起したためであり、海水が減ったわけではない。なお、津波や地震のおそれは絶対にないと断言された」

解説

注意

記事をお読みいただく上での注意点は、大正12年9月1日の記事にまとめましたので、ご覧ください。

救援物資が静岡から機械船で送られて来ました。当時の機械船とはどのような種類の船なのでしょうか。当時は、機帆船が一般的であると考えられますが、 蒸気船かディーゼルエンジン船かと思われます。大阪から相模紡績会社に送られる米300石は帆船で輸送されるようです。

地震発生9日目。次第に情報が入るようになってきました。警察署には、地震発生後初めて警察部長から書面が届きます。交通などの情報をとりまとめ、謄写したものを関係各所へ配布するなど、収集した情報を公表することも、警察署の大事な役割となっていました。

平塚にあった相模紡績会社では大きな被害があり、女工を帰省させることになります。帰省は被害甚大な東京方面へ向かうことにもなり、厳重な配慮がなされています。

そして、この日は悪天候にも見舞われました。避難者の生活には、大変な苦労があったことがわかります。

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