大正12年9月1日

更新日:2023年09月01日

助役日誌

9月1日(土曜日)、午前7時30分出勤。

戸籍謄抄本事務に忙殺。

正午12時頃までは、天候は晴れて穏やかだったが、突然震動が起こり、続いて未曾有の大地震となり、小さい津波を起こし、すぐに異常な引き潮を起こした。同時に全町に家屋の倒壊があった。特に停車場付近が最も激しく、町役場の小使室を倒し、数分して一時沈静した。

その後、小さな震動が繰り返しあり、皆、気持ちが落ち着かなかった。町民は一様に居宅を離れ、各自避難して安全な場所で夜を明かした。役場吏員一同、必死で救護にあたった。

午前11時56分、浜松発東京行の列車が、大磯停車場を出発して東海道踏切付近を進行中に転覆。即死者8名を出し、重軽傷者36名を駅長・駅員・駅夫等と共に救護した。

同時に議員一同を召集し、善後策を講じた。 役場吏員一同は、共に徹夜で救護事務に従事した。

午後9時頃帰宅。本日、被害の程度は不明である。

大磯警察署の日誌

9月1日(土曜日)晴

大地震
署の時計は午後0時10分。署長は署長室で昼食を取ろうとしていた。平根巡査部長は水島・神谷両巡査と共に高等事務室にて選挙事務を行い、高野沢・稲富・五木田・門馬・渡辺の各巡査と佐藤衛生技手、藤田電話工夫等は各担当事務を行っていた。その時、突然大震動が起こり、大音響と共に庁舎が激動し、本箱やその他の備え付けの物品が落下、壁ははがれて落下し、立って歩くことが困難な状態になった。今や庁舎が崩壊しそうになったため、署員は外に避難し、署長は署員の避難と激動が静かになるのを待って、外に出た。この激動は3分以上あった。

外は、全壊・半壊の家屋が数多く、天空には土煙が舞い、薄暗くなっていた。間断なく強烈な余震が襲来し、不気味な音が起こって、道路や空き地に避難している人々は座ったり伏せたりして、青ざめて、ただ救いを求めることしかできなかった。

町方面から津波が来たと叫び、避難して来た者がいた。平塚方面から大音響と共に黒煙が空に上り、その付近に白煙がもうもうと立ち上っていた。大火災が各所に発生したと思われたが、日光のためよく見えなかった。

火災の防止・衛生用品の収集・人名救助
署長は火災の防止と人名救助、衛生用品の収集を命じた。水島・吉田の両巡査は町内を走り回りながら、大声で火災の警戒を呼び掛けた。その後、半壊または大破している薬屋に、店主の承諾を得て、危険を冒しながらも潜入し、衛生用品を集めた。津金巡査は留置人1人を解放した後、大破してまさに墜落しようとする庁舎上部の鐘楼に上って、警鐘を乱打した。火災の警戒と消防組員の出動を伝えたが、誰も来なかった。署長も続いて鐘楼に上り、火災の状況を見ながら警鐘を乱打した。残った署員は近くの倒壊した家屋の被災者を救助していたところ、署長と2人の巡査の家屋が全壊して、署長の家族4人が家屋内に取り残されているとのこと連絡があった。署員と近所の人々が協力して、昏睡状態の家族を救助した。

応援視察員の派遣
平塚方面から聞こえた大音響と共に立ち上がった黒煙は、海軍火薬廠の爆発であった。平塚町ではさらに数か所火災があった。大磯町高麗では列車が転覆し、多数の死傷者が発生した。地震発生10分後、応急施設を開設するために、各駐在所員の安否調査に出かけた小林・関口両巡査を平塚・須馬及び吾妻・国府の両方面に、同時刻に病気で欠勤していた斎藤巡査部長が出署したため、列車転覆の死傷者の救護を含め、平塚方面への応援として派遣した。署員の家族の安否確認には柴崎巡査を派遣した。署長はこのことを署員に告げ、帰宅を止めたが、一人も帰宅を望む者はいなかった。

非番の署員の出署
自宅に待機していた署員は地震発生20分後に、全壊・半壊の自宅を顧みず、全員出署した。家屋が損壊したため、制服を取り出すことができず、急いで出署したため、私服の者が多かった。署内にあった制服を着用させ、警察官であることをわかりやすくした。

救護班の編成・救護
在郷軍人8名の応援を求め、3隊の救護班を組織し、多量の衛生用品または家屋を破壊するための道具を持って、午後1時に吾妻・国府両村、平塚町・須馬・大野両村、大磯町の3方面へ出発した。

警察署の移転
庁舎が倒壊するおそれがあったため、午後1時30分頃、警察署前の三輪別邸庭園内に仮事務所を置き、負傷者の応急手当を行った。

署員の負傷
頭部に瓦が落下して重傷を負った者1人、平塚町役場にて遭難し、顔と腰を負傷した者1名、その他、小使等に至るまで負傷した者はいなかった。

各駐在所その他管内の被害状況
各駐在所は全壊・半壊または大破していない所がないのにもかかわらず、いずれも死力を尽くして人名の救助、火災の予防に努めた。駐在員はもちろん、家族に至るまで死傷者なし。平塚町は約9割の家屋が倒壊し、海軍火薬廠ほか3か所で火災が発生。古花水橋付近の道路が3町余り(約330メートル)亀裂または壊れ、通行困難。相模紡績会社では死者200人以上。平塚小学校及び平塚駅でも多数死者があることを見込み、その数は300人に達する。大野村は家屋が約6割倒壊し、四之宮で火災が発生。死者20数名。須馬村では家屋が倒壊し、死者50人程。馬入鉄橋と馬入橋は墜落し、堤防もほとんど壊れた。国府村は約5割の家屋が倒壊し、死者20人以上。吾妻村は2か所で火災発生、中里方面の家屋がほとんど全壊し、30人以上の死者あり。塩海橋墜落のため交通遮断。旭村は5割以上の家屋が倒壊し、死者20人程。そして大磯町では列車が転覆し、その他の被害多く、死者30数名。海水が減退し、津波のおそれがあったとのこと。

県庁へ報告
被害が甚大なため、応援員の派遣を求めるため午後2時に藤田工夫に書面を持たせ、自転車にて出発させた。午後6時頃、小田原警察署長から逓伝の書面あり。大磯警察署でも第二報告をしたが、この時、横浜方面が大火との連絡があり、応援員の請求を控えた。

注:逓伝(ていでん)、手渡しで送付すること。

巡視
署長は午後1時から大磯町を、午後2時頃から平塚方面を巡視し、途中、転覆列車や相模紡績会社、平塚小学校等の死傷者の救護、遺体収容を激励した。また、夜間の警戒その他を署員や消防組員に指示して午後4時半頃、帰署した。

馬入川渡船開始
午後3時頃から須馬村馬入の消防組員の有志によって、馬入川(相模川)の渡船開始。この渡船は決死の努力を必要とするため、篤志家からの渡船料の徴収を黙認した。

臨時火葬場の設置
平塚町の海岸に臨時の火葬場を設置した。

無料自動車の運転
大平自動車商会は、転覆列車の現場から商会まで、死傷者の搬送にあたった。午後5時終了。その後、花水川・大磯間の無料自動車運転を開始したいとの申出があり、直ちに認めた。

人心安定の掲示
地震または津波来襲の風説があり、被災者の不安が募っているため、管内の各所に「大地震や津波のおそれは絶対にない」と掲示して、人びとの心を落ち着かせるように努めた。

深夜の警戒配置
午後11時頃、署員の配置を次のようにする。
警察署前の仮事務所:署長及び警部補・巡査部長各1名、巡査10名
平塚警部補派出所:警部補・巡査部長各1名、巡査10名
本署及び警部補派出所から2名を一組として巡回員を派遣し、警戒にあたった。平塚町内を除く各村の駐在所及び派出所員は任地において警戒にあたった。

避難民救護
夜半、小田原方面からの避難者に対して、署員に用意したにぎり飯を与え、負傷者の応急手当を行った。

解説

とうとうこの日がやって来てしまいました。「関東大震災」として歴史に残る、大正12年9月1日です。

今日からしばらく1か月は、大磯警察署の日誌も同時にご紹介します。大磯警察署の日誌は、震災翌年の1924年に『震災記録』(高橋栄吉編『震災記録』大磯警察署、1924年)として刊行され、『大磯町史』3資料編近現代(1)に収録されています。このブログでは、『大磯町史』に収録されている日誌を参照しました。

なお、本文の現代語訳については、極力原文を現在の言葉に直して、読みやすいようにしています。従って、原文の内容を全てお伝えできているものではありません。詳細をお知りになりたい方は、ぜひ、原文をご一読願います。大磯警察署の『震災記録』は、『大磯町史』に収録されているものも含めて、大磯町立図書館などで読むことができます。

助役日誌及び大磯警察署の日誌における関東大震災の記述に関する諸注意
  • 助役日誌は、当日の出来事を小見助役がメモして、まとめてから記述していたと考えられます。小見助役が、地震後の数日間の記録を、同じように記述できていたかはわかりません。助役日誌の記録は、あくまで混乱した中で、小見助役が実際に見聞きし、携わったことを中心に書いたものと考えられます。従って、地域の被害状況の全容を示すものではないことをご理解願います。
  • 震災当時の大磯町は、大磯町(現・大磯地区)と国府村(現・国府地区)で行政が分かれていました。助役の日誌の記述内容は、主に大磯地区のものになります。
  • 警察署の日誌には、普段の警察業務に伴う、犯罪者の検挙等にかかわる記述が見られます。このブログでは、地震や震災に直接かかわりのない通常業務に関する記述は省略しました。
  • 警察署の日誌には、朝鮮人や自警団に関する記述が見られます。これらの記述に関しては、警察署の日誌に記録された事実として紹介します。一部、現在の考えからは差別的な表現や行動ととらえられる記述もありますが、歴史事実を伝えるものとして掲載しています。
  • 両日誌の記述は、いずれも関東大震災の一部を伝える内容に過ぎません。関東大震災については、後日、改めていくつかのテーマに分けて解説する記事を掲載する予定です。

いつもと変わらない朝を迎えた小見助役。定時に出勤して吏員(職員)等と共に執務に忙殺していました。未曾有の災害が起こるような気配はみじんもない、穏やかな天候でした。

午前11時58分、地震発生。

小見助役等吏員たちは、激しい揺れの中、なんとか外へと避難することができました。当時の町役場は築4年の木造2階建て。現在の駅前駐輪場西隣の場所にあり、駅前広場に向かって正面出入口がありました。隣接していた小使室が倒壊したものの、本体が倒壊しなかったことが幸いしました。

外へ出た小見助役たちがまず目にした光景は、押しつぶされるように全壊した停車場(大磯駅)の駅舎だったと思います。助かった駅長と駅員たちは、地震が起きる直前の午前11時56分に、大磯駅を発車した東京行の列車が転覆したことを知ります。列車は山王町・化粧坂の入り口にあった踏切を通り過ぎ、高麗地区との境のあたりを走行中に地震の揺れをまともに受けました。記録として残された写真を見ると、連結部で折れ曲がって転覆し、周囲にあった水田に突っ込んでいるのがわかります。高麗地区の住民をはじめ、消防団・青年団なども加わって救援活動にあたり、負傷者を近くの民家の敷地に運んだとも言われています。

余震が続く中、小見助役たちは情報収集や救護に走り回り、町会議員たちを集めて対策を協議します。しかし、連絡手段である電話や電信は、設備が被災して使えません。道路も寸断し、恐らくしばらくの間は、大地震が起きたことはわかっても、関東一円が壊滅的な被害を受けたとは思わなかったのではないでしょうか。小見助役のもどかしい気持ちが、最後の「本日、被害の程度は不明である」という一文に表れているように思います。

一方警察署は、現在消防署になっている場所にありました。庁舎自体が倒壊するおそれがあったため、危険を避けて近隣の別荘の敷地に仮事務所を置いて、情報の収集に努め、治安の維持と交通手段の確保に動いています。役場と同様、通信手段の警察電話と電信は不通となり、県庁へ報告と応援要請をするため、工夫(技術職員)を自転車で向かわせてしまったのは、横浜の壊滅的な状況がわからなかったためでしょう。

また、この日は土曜日。諸官庁は半日の勤務で、ちょうど退庁時間になるところでした。実はそのことが、直後に広がった火災と共に、中央官庁の初動の遅れに大きく関わったと言われています。東京の諸官庁の職員の多くは家族の安否を確かめようと、急いで帰宅してしまったのです。すぐに呼び戻すことはほぼ不可能でした。指揮を執るべき内務省も警視庁も例外ではなく、残っていた少数の職員が防火と書類の搬出に努めましたが、数時間で全焼してしまいます。

この日、町役場では、吏員たちはいったん外へ避難したものの、そのまま役場にとどまりました。午後9時になって、小見助役はやっと自宅の様子を確かめに帰ります。 警察署でも、署長は家族が被災したにもかかわらず署にとどまり、当日勤務中の署員にも帰宅をとどまらせ、彼らもそれに応えています。さらに非番で自宅にいた署員たちも、私服のまま集合してきました。彼らは皆、この後、数日間にわたり、不眠不休で活動していきます。

参考

高橋光『大磯ふるさと紀行』p.251

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