大正12年9月5日
助役日誌
9月5日(水曜日)、午前7時30分出勤。
本日から警察署前に湯呑所を設け、避難者の便を図った。同時に天幕張りの仮小屋を設置し、避難歩行者の無料宿泊に使えるようにした。
その他、災害のための事務に忙殺した。
午後8時頃、帰宅。
大磯警察署の日誌
9月5日(水曜日)晴
署長の巡視
署長は午後10時、平塚須馬方面を巡視し、翌日の午後5時に帰署した。
食料の供給方法について上申
食料の輸送が途絶し、この後、数日内に輸送が無い場合、不穏な状態になる恐れがある。この配給上の問題を知らせるため、上申した。
電灯の点灯
電灯設備が全滅し、他の灯火材料が不足した。しかし、海軍火薬廠には火力発電があるときいたため、この発電で点灯することを交渉したところ快諾され、当夜は平塚町・須馬村・大野村の街路、重要な個所に点灯することができた。
警察電話の開通
大磯以西、本郷・二宮・山西の各駐在所に警察電話が開通した。
道路の復旧
震災のため、各道路の亀裂が激しく、路面には家屋が倒壊し、交通が完全に遮断している状況であるため、一般通行人の利便と、物資の輸送に利用するため、坂本刑事に消防組員数名を配属して、特別に開通工事にあたらせた。付近住民もこれに賛同して協力、援助したため、平塚・大磯両町間の道路の大部分を復旧することができた。
軍人の到着
午後3時、豊橋工兵第15連隊の八木軍曹ほか、卒(下級兵士)6名が到着。吾妻・大磯・平塚方面の軍用電話を架設し、午後7時にこの区間が開通した。午後6時、歩兵第34連隊の大竹軍曹ほか、卒5名が到着した。徹夜で警戒する予定であったが、疲労のため警察署の宿所で休憩した。
大磯町の救護施設
本日、大磯町において、湯呑所を設けた。大磯町会議員その他の有志は、救護事業の開始について、当署内において協議会を開催した。
宿泊所の収容状況
収容人員500名余り、炊き出し玄米1俵(約60キログラム)、大豆1斗(約15キログラム)
人心安定のための被害状況の掲示
午後3時、京浜火災の詳細と、以下の内容の掲示をした。
「軍隊はすでに到着し、警戒に従事しているが、今後も一層、火災や犯罪の予防に努めてほしい」
郡役所の状況
中郡役所は、3日以降不在のため、事務打合せ、その他に多大な支障がある。
寄贈品
大磯町 | 台町 | 二宮長松 | 白米 | 1俵(約60キログラム) |
化粧町 | 郷土久蔵 | 豚肉 | 約10斤(約6キログラム) | |
台町 | 樺山伯爵 | 清酒 | 1斗(約18リットル) | |
神明町 | 有村国太郎 | ビール | 1ダース | |
神明町 | 奥山絢三 | 清酒 | 5升(約9リットル) | |
平塚町 | 新宿 | 柏木竹次郎 | 白ワイン | 3ダース |
新宿 | 古家達三 | 清酒 | 5升(約9リットル) | |
豚肉 | 5貫目(約19キログラム) | |||
本宿 | 原田敬冶 | 玄米 | 3俵(約180キログラム) |
解説
注意
記事をお読みいただく上での注意点は、大正12年9月1日の記事にまとめましたので、ご覧ください。
2011年(平成23年)3月11日に起きた東日本大震災の発生直後、自宅ヘ歩いて帰ろうとする人びとの列が、国道1号線沿いに延々と続いていたのを覚えている方も多いと思います。100年前の当時も、同様の事が起きていました。大勢の人びとが歩いて大磯を通過しようとしていたのです。
まず国道1号線沿いにあった警察署が、半壊の被害を受けながらも敷地内に早急に仮宿泊所を置き、大磯・平塚町内には宿泊所を設置して食料の配布をするなど、対応していました(9月2日)。しかし、かなり大変な状況になっているのが日誌の記述から見て取れます。町としても何らかの対応をと考えたのでしょうか。簡易な休憩所として「湯吞所」を、またテント張りの仮宿泊所も設置しました。また、大磯・平塚両町内有志から、寄贈品も集まってきています。
このような救護所・仮小屋(天幕・バラック)は、震災直後から被災地に次々とつくられたようで、大磯も、このようなものがつくられたことが推測されます。
警察署の日誌には、一部平塚地区での電灯点灯、平塚―大磯間の道路工事、警察電話の開通など復旧が進む様子と共に、愛知県豊橋から軍人(工兵と歩兵)が到着したことが記述されています。工兵はさまざまな技術を持っていたので、派遣先での復旧作業では顕著な働きをしたと言われています。
更新日:2023年09月05日