100年前の大磯 関東大震災特集8 大磯周辺の治安状況とその対応(その2)

更新日:2023年11月28日

前回からの続きです。

証明書の発行

9月3日 。いったん朝鮮人や解放囚人に恐怖心や懐疑心を持ってしまった人びとは、警察が朝鮮人や中国人を保護するために、警察署へ送る活動をしていることに対して、「警察が厳重に警戒しているのは、本当に危険が迫っているからに違いない。朝鮮人や中国人を署内に入れているのは、犯罪者だから検挙しているのだ」と受け止めたと言います。

そのような情勢の中、通行する避難者や、地方へ出かけたい人びとから、「日本人であるという証明書を発行して欲しい」という要望が届きます。その数は急激に増え、急ぎ謄写版(ガリ版刷り)で証明書を作って発行することになりました。人びとの間に、見知らぬ人間に対する不信感と、外国人や囚人であると疑われたら、暴行されるかもしれないと言う恐怖感がまん延してきたことの証しでしょう。この後、町内から、役場の依頼を受けて地方へ米の調達に行く人や、買い出しに行く人、また、壊滅的な被害を受けて操業ができなくなった平塚紡績工場の女工たちを集団帰省させる際に、それぞれ身分証明書と関係機関に保護を依頼する書面を持たせています(9月9日)。

事件の発生

9月4日午後3時、警察は前日に発行された新聞を初めて手に入れ、新内閣の組閣その他の情報を入手します。そして、「戒厳令・徴発令が宣布された、軍隊が明日中には到着するはずだ」という内容の掲示を、管内各所にします。ここまで毎日のように、署長は自ら度々管内を巡視し、消防組員・在郷軍人・青年団員を要所に配置して、秩序回復を目指し、良い兆しが見え始めたと思っていたようです。

しかし…、この日の午後6時、とうとう平塚町で、朝鮮人に対する暴行事件が起きてしまいます。幸いにも、駆け付けた巡査らが群衆を押しとどめて何とか助け出し、保護することができました。

軍隊の到着とデマへの対応

9月5日から7日にかけ、戒厳令に基づき、軍隊が静岡県豊橋から到着します。工兵は軍用電話の架設をし、基本部隊は治安の悪化が懸念される平塚町に、また管内各所に分隊を配置しました。

さらに、後続の部隊は二宮に連隊本部を置き、大磯の郡役所に大隊本部が設置されました。この軍隊の到着が、人びとを安心させたかというと、残念ながら、なかなかそうはいかなかったようです。

9月6日、署長は「自警団」に対し次のような内容を訓示します。

「大勢で連日連夜警戒にあたると、心身疲労困憊して過ちや失敗を生ずることになる。軍隊も出動しているので夜警は必要最小限にし、武器、竹木類は絶対に携帯しない。氏名を聞いたり、訊問することは禁止する」

9月9日午前9時、7日に内閣がデマの根絶を図るために出した「勅令403号(緊急勅令)」に基づく次のような掲示を出しました。

「竹槍その他の凶器の携帯は厳禁、暴利を取り締ること、流言・浮説を取り締ることについては、勅令(天皇の命令)が発せられている」

昼12時30分、警察はデマに対応した本格的な対策を開始します。100年前の大磯のコーナーでは省略しましたが、30名の朝鮮人を自動車5台に分乗させ、巡査と軍の兵士も同行させた上で小田原警察署へ送りました。 10日には中国人9名を、13日には帰国を希望する朝鮮人4名を、同様に小田原ヘ送っています。これらは全て、彼らを保護するためだったと推察できます。

さらに、巡査部長に町内を回らせて人びとに「勅令」を伝え、デマを徹底的に抑えるよう仕向けています。

事件の発生2

この震災では、鉄道が大打撃を受けていたことはよく知られています。大磯では、9日に復旧工事のため、人夫・工夫250名が到着し、連日作業に従事していました。彼らの素行が良くなかったことで起きた事件の顛末が、13日から18日にかけての警察日誌に記録されています。

9月13日午後11時頃、工事に携わっていた人夫5名が、「停車中の列車内で朝鮮人に脅迫された」と周囲に言いふらし、騒ぎ立てました。虚偽と見抜いた警察は、彼らを拘束します。 列車内に居たのは鉄道当局に保護・引率されてきた朝鮮人15名で、署長は翌朝、人夫らの釈放にあたり、雇い主と、列車に保護監督者を付けなかった鉄道省技術者に請書(誓約書)を書かせています。

ところが、その後も工事に携わっている関係者らの素行は悪く、集団で深夜に酔って騒ぐ、田畑の野菜を盗む、婦女子に乱暴をはたらく等々の苦情が届くようになります。18日、とうとう警察署長は駅長と工事監督者に対し、厳しい文面で、しっかり監督するよう求める書面を送りました。

女性や子どもたちの保護

徐々に復旧しつつあった鉄道路線ですが、列車は混雑を極め、治安が悪く、その利用には不安があったようです。大磯町内では、別荘に滞在していた人びと、特に女性が東京方面に戻れなくなっていました。それを解消するため、警察は鉄道当局に交渉し、茅ヶ崎仮駅発の一番列車(早朝4時59分発)を専用列車とし、1回20名程度の乗客を募集して便を図ることにします(9月18日)。警戒要員として署員1名も派遣しました。

注:この時、地震により相模川に架かる馬入橋が陥落し、茅ヶ崎が東京方面行き列車の始発駅になっていました。

自警団の発足

戒厳令による軍隊の派遣によって、市民による自警団の活動は禁止されていましたが、状況が落ち着き、軍隊の引き揚げが予定されるようになると、引き続きの治安維持のため、新たな自警団が組織されます。

9月27日午後1時、郡役所に町村長・在郷軍人分会長・青年団長らが召集され、近隣の伊勢原分署長・秦野分署長代理が同席する中、戒厳令解除後(軍隊の派遣終了後)における警戒準備として、至急、自警団を組織するよう命令が出されました。

30日には、大磯町内に置かれていた大隊本部が小田原ヘ移りました。大磯警察署管内各地に駐屯していた軍隊も、この先順次、引き揚げていくことになります。自警団は、すぐに組織された所もあったようで、この日、「北本町・寺坂・生沢からの設置の出願に対し、すぐに許可を出した」と書かれています。町村単位ではなく、字(地区)ごとに発足しているのがわかります。

以上、主に大磯警察署の日誌を中心に、関東大震災が発生した時の地域の治安状況をまとめました。

震災直後から広まった流言(デマ)は、治安悪化の大きな要因でしたが、大磯周辺においては、多くが避難者からの「情報」として外部から伝えられたものと考えられ、さらに地域によって、人びとの受け止め方や反応に違いがあったことがわかります。

またそれに伴う「自警団の暴走・虐殺」については諸説ありますが、記録を見る限り、大磯警察署管内では、発生を食い止めるためにさまざまな努力をしていたと感じます。

一方で、警察からの依頼で臨時に結成されたかに見える「自警団」を、治安維持のために、正式に組織化しようとしていたこともわかります。 流言(デマ)の発生については、情報が少なくなり、人びとがそれを「情報が隠されている」と感じた時、一気に不安が広がり、生まれやすくなると言われています。正しい情報を、迅速に伝えることが大事です。フェイクニュースが瞬時に広まる危険を感じる昨今、100年前に起きたさまざまな事象を「過去の出来事」と思わず、一人一人が情報を見極め行動することがいかに大切か、改めて考えたいものです。

次回は12月1日(金曜日)に更新します。インフラの復旧に関する記事を掲載する予定です。

参考

『大磯町史』3

『大磯町史』7

『平塚市史』10

『横浜市震災誌』第3冊、1926年

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