大正12年9月6日

更新日:2023年09月06日

助役日誌

9月6日(木曜日)、午前7時50分出勤。

本日より、役場仮事務所を警察署前の湯呑所の傍に移した。

午後2時から町会議員を召集。別荘の被害と外灯供給のための協議を行った。

戒厳令が公布された。通牒を各区長に伝達し、物資を供給するため、徴発した。軍隊が当所に出動し、警察署仮事務所内を小隊本部とした。

警察署長の注意により、被災者に対し、町役場仮事務所において、玄米大豆飯を供給した。

午後9時頃帰宅。

大磯警察署の日誌

9月6日(木曜日)晴のち雨

警察署仮事務所の廃止
9月1日以来、警察署前空き地において執務していたが、本日明け方から署内に移転した。

軍隊の到着と警戒
今朝、原大尉が指揮する歩兵第34連隊の1個中隊が到着し、基本部を平塚町に置き、同町に2個分隊を駐屯し、付近の大野村四之宮・須馬村馬入に各1個分隊を駐屯させて、警察と協力して警戒に務めることになった。郡役所及び町村役場にその旨を知らせ、共に警戒にあたった。

道路の復旧
道路が復旧したので、須馬村馬入より国府津までを4区間に分け、1区の料金を20銭とし、旅費に困らない者は運賃を支払うことを掲示し、避難者の便を図った。同時に、無賃輸送は中止した。

暴利取締り
不当な価格で販売した平塚町新宿の者に、始末書を書かせて諭した。

女性暴行者の拘留
夜間、女性に対して暴行した国府村の者を拘留処分にした。

電力と灯火材料の追加供給を交渉
海軍火薬廠の火力電気を使って、すでに一部分に点灯することができているが、その余力で他町村にも配電することを、岸本機関中佐に交渉したところ快諾を得、また、ろうそくの代用品として原油の供給を申し込んだところ、これまた快諾されたので、各町村長を召集した。

電灯の点灯
海軍火薬廠工夫及び小田原電灯の工夫を坂本刑事が指揮して、大磯町内20数か所及び当署内2か所に電灯を点灯した。

自警団の改善と武器所持の禁止
次のとおり、管内の要所に掲示し、同じ内容を口頭で伝えた。

  • 多数の人員が連日連夜警戒にあたると、心身が疲労し、誤りや間違いを起こすことになる。兵員も出動しているため、夜警員は必要な範囲にとどめること。
  • 武器・竹木類は絶対に所持しないこと。
  • 名前を聞いたり、訊問したりすることは禁止する。

署内に救護所を設置
負傷した佐藤警官医が出勤して来たため、署内に救護所を設置し、負傷者の治療にあたらせた。

宿泊所収容状況
収容人員250名余り、炊き出し玄米5斗(約75キログラム)、大豆8升(約12キログラム)

寄贈品

大磯町 南本町 バジェット(イギリス人) シャンパン酒 3本
大磯町   匿名 1羽

匿名で鶏1羽を贈った者からは、「当署員の労をねぎらう」との懇切丁寧な書面が添えられていた。

注:アーサー・リチャード・パジェットは、イギリス人技術者。この後、山王町に自宅を持ち、大磯で没した。

衛生についての掲示
次のとおり、管内の要所に掲示した。

「京浜・小田原方面に感染症発生の報告があった。飲食物その他に注意し、ゴミや汚物は集めて地中に埋めること」

交通についての掲示

「自動車・荷馬車に乗車する者で、旅費の支払いが困難な者は、無料で乗車しても構わない。また、乗車の際は、負傷者・高齢者・女性・子どもを優先し、健康な者は後に回るなどの配慮をしてほしい」

署員の免職を上申
当署に勤務する巡査の内1名は、署在管区員として震災後の活動は誠に賞賛すべきものであったが、本日午後3時、無断で自宅に帰り、その後出署して来ないので調査したところ、郷里の茨城県下も被害が甚大で、家族の生死が不明だと人づてに聞き、救済のため帰郷したとのことであった。しかし、この非常時にあたり、規律を乱すため、直ちに免職を上申した。

署長家族の安否
本日、署長の親族が横浜からやって来て、親族の家8戸は全て全壊全焼。実兄と夫人の兄が焼死したことが判明した。

解説

注意

記事をお読みいただく上での注意点は、大正12年9月1日の記事にまとめましたので、ご覧ください。

地震発生5日目です。

町役場の仮事務所を、警察署の前に移しました。協力体制を強化し、利便を図ったのでしょうか。

そして、町会議員たちを集めて協議したことは、別荘被害と電気の復旧についてです。 電気は重要なインフラですから当然ですが、別荘の被害状況をこの段階で把握しようとしたのは、別荘が大磯町にとっていかに特別な存在であったかということの表れでしょう。

町内の被災者に対する食料の配布も始めました。町として買入れた玄米を、早速利用したのでしょうか(9月4日)。玄米大豆飯は、その名の通り玄米に大豆を混ぜて炊いたもの。大豆を混ぜるのは、米の消費を減らすための工夫だと警察署の日誌には記されています(9月4日)。

また、助役日誌には、この日に戒厳令が出て軍隊が来たと書かれていますが、実は、すでに9月2日に政府から戒厳令と非常徴発令が緊急発令され、治安維持や救援活動のために軍が動き始めていました。警察署の日誌には、大磯町にも4日に戒厳令が、5日には愛知県から少人数ながらすでに兵士らが町に到着した、と書かれています。戒厳とは、戦時または事変に際し、兵備をもって全国もしくは地方を警戒することです。

このように記述に違いが出たのは、まず自治体と警察の体制・立場の違いがあり、小見助役の記述の仕方によるものと思われます。実際、横浜は東京と同様に火災の被害が甚大で、県庁は焼け残った横浜公園に仮本部を開設するなどして対応しましたが、十分とは言えない状況であり、神奈川県が戒厳地域となったのは翌日3日でした。通信や移動の手段がまだ限られていた状況下、さまざまな通知や軍隊の派遣も、遅延せざるを得なかったようです。

その間の治安の悪化に呼応して活発に活動したのが自警団で、行き過ぎた対応をしないよう警告が出されたことが、警察署の日誌からわかります。

さて、この戒厳令。本来は天皇の勅令があり、枢密院の顧問官会議を経て発令されるものでした。しかし、大正天皇は病気療養中のうえ、中枢となるはずの内閣府や警視庁・逓信省・鉄道省などは本庁舎が焼失して機能を失っていたため、特例として内閣の責任で発令を決定することになりました。しかし、実は政府内部では大変な事態が起きていました。

地震発生の8日前、8月24日に、指揮を執るべき内閣総理大臣・加藤友三郎が急死していたのです。後任には山本権兵衛が決まっていましたが、組閣が難航し、9月1日の時点では内閣が成立していませんでした。急遽、外務大臣の内田康哉(うちだ・こうさい)が、新総理の組閣が終わるまでの2日間、総理大臣臨時代理となり、前加藤内閣の閣僚たちが首相官邸の庭に集合して、震災対応の協議・決定をしたのです。

警察署の日誌では、9月4日になって9月3日発行の新聞を入手し、新内閣の組閣内容を知ったと書かれています(9月4日)。

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