大正12年9月4日

更新日:2023年09月04日

助役日誌

9月4日(火曜日)、午前7時30分出勤。

本日、警察署及び米穀商組合に交渉の上、救助米の捻出について協議した。準備米として、渡辺仙太郎より玄米10俵(約600キログラム)を買入れ、自動車を使って役場へ引き受けた。

午後6時に三宅議員が来場、火薬廠から外灯の供給があることを告げられた。

吏員は徹夜でいろいろなことに対応した。

午後12時に帰宅。

全ての作業は仮事務所で行った。

大磯警察署の日誌

9月4日(火曜日)晴一時雨

巡視
午後12時から平塚町を巡視し、署員及び自警団員・青年団員等を監督、激励して、翌日の午後3時半に帰署した。

平塚派出所に接待所を設置
平塚町警部補派出所脇に、警察の茶菓接待所を設置し、避難者に対して地元有志が寄贈した芋を配ることにした。接待係は平塚町新宿の守屋テツ、同所の田中善吉両家の雇人。

報告
震災に関する概況、追加第7報を、特便を使って報告した。

電話工夫の帰署
地震発生の1日午後2時に、報告書を持たせて横浜ヘ行かせた藤田電話工夫が、本日午後1時に帰署した。署員一同、生死が不明で心を痛めていたところだったので、今まで報告がなかったことを、厳しく注意した。

電話の開通
藤田電話工夫が帰署したので、すぐに大磯・平塚間の電話を復旧させた結果、午後6時になって一部開通することができた。

警戒
前日に引き続き、管内の消防組員・在郷軍人・青年団員を要所に配置し、警戒にあたらせたことで、ようやく状況が少しずつ落ち着きを取り戻す傾向が見られている。

朝鮮人の保護
午後6時頃、平塚町の平塚屠殺場付近で、朝鮮人が群集から暴行を受けていたため、平根巡査部長と草野巡査が群集を制止して救助、看護し、平塚町警部補派出所に保護​​​​​した。落ち着いたところで、本署に移動した。

救護所の廃止
警察署前及び平塚町警部補派出所に設置した臨時救護所(署員の手で治療)は、本日をもって廃止し、篤志の町医者に嘱託した。

新聞紙の入手
午後3時、3日発行の東京日日新聞を初めて入手した。必要な記事を大きく書き写して掲示した。新しい内閣の組閣を知った。

宿舎収容状況と寄贈品
宿舎の収容人員は400名余り、炊き出し食料米3斗(約45キログラム)、豆1斗(約15キログラム)。大磯町北本町の阿部川佐吉より、大豆5斗(約75キログラム)の寄付があった。食料を長く持たせるために、大豆入りのにぎり飯を出した。試食してみたが、玄米飯より良好。

食料に関する掲示
食料品の不足に関する不安の声がますます激しくなり、次の掲示を管内要所にした。

「食料は軍艦によって輸送を開始しているため、不足するおそれはない。安心すること」

衛生上の掲示
衛生面に関しては不良の状態が多い。次の掲示を管内要所にした。

「急な発病者は必ず医師の治療を受けること。感染症の患者が発生し、またはこれを発見し、あるいはその治療に従事した時は、すぐに届け出ること」

寄贈品
大磯町南本町の住民から次の寄贈品があった。

中村君太郎 手ぬぐい 約30枚
今村与一 氷砂糖 10斤余り(約6キログラム)
豊田由蔵 経木帽子 100個余り
豊田周蔵 綿ネルシャツ 10枚

手ぬぐいは避難者に1枚または半分に切って、氷砂糖は宿舎に滞在している者に少量ずつ、経木帽子は警察署の前に置いて自由に持って行かせた。 

人心安定のための掲示
午後3時、次の掲示を管内要所にした。

「当地方に戒厳令並びに徴発令が宣布された。軍隊は明日中に到着し、警戒にあたる予定である」

解説

注意

記事をお読みいただく上での注意点は、大正12年9月1日の記事にまとめましたので、ご覧ください。

地震発生から3日が経ちました。食料不足への不安が広がっている様子がわかります。 大磯町は現在よりも農家が多く、自給自足ができたこともあり、当初は食料不足に起因した混乱は少なかったと言われています。しかし、9月2日の警察署日誌の記載からもわかるように、東京方面からは徒歩で避難してきた人びとが、小田原方面からは避難者に加えて安否確認に東京方面へ行こうとする人びとが続々とやって来て、大量の食料が必要となりました。警察署は対応として、宿泊所と米を調達し、すぐに米穀商に販売に関する警告を出しています。

この日は、役場としても玄米10俵(約600キログラム)を準備しました。輸送用の自動車は、警察が徴用した物を使ったのでしょう。

その他、警察署日誌では、怪我などの救急医療は落ち着きましたが、今度は衛生面や感染症の発生が危惧されています。100年前の当時は現在と異なり、消防と衛生に関することは、警察が担っていました。

町役場に火薬廠からの外灯供給(電力供給)の連絡を告げに来た三宅議員とは、町会議員・三宅悌吉のことです。火薬廠(かやくしょう)とは、平塚にあった「海軍平塚火薬廠」のことで、大正8年(1919)に開設され、約38万坪の敷地に海軍の兵器用爆弾・火薬を製造する工廠(工場)や研究所・病院(海軍共済組合平塚病院)などがありました。現在跡地には、横浜ゴム(株)平塚製造所、国家公務員共済組合連合・平塚共済病院などがあります。また、敷地内には当時の面影を残す遺構が残っている場所もあります。

火薬廠もかなり被災していましたが、火力発電の設備がありました。この後、余力電気の提供を警察も交渉していきますが、この件についてはなぜか三宅議員の方が早く情報を伝えに来ています。

100年前の当時、すでに電話や電気は重要なインフラであり、早期の復旧を目指したことが、両方の日誌からわかります。

なお、警察署日誌は、この日に戒厳令と徴発令が出されたと記述していますが、仮事務所で事務に忙殺する小見助役は、この件に触れていません。

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