100年前の大磯 関東大震災特集6 食料の確保
今回は、特に生命の維持に欠かせない震災後の食料事情についてまとめます。関東大震災の時、大磯町では、町民の食を確保するためにどのような対策をとったのか、避難民に対しての食の供給など、助役日誌と警察署の日誌を改めて見てみましょう。
地震発生!まずは…暴利の取締り
町役場や警察署にとって大きな課題の一つ、食料の確保と供給については、9月2日から日誌に登場します(9月2日)。警察署では、災害時の物価の高騰を避けるために<物価調整の警告>をすぐに発しました。一部の暴利者に対する売り惜しみや不当な価格での販売の禁止、買占めを避けるために米は1人3升まで販売するよう命じました。暴利者に対する対策と、警告、取締りを強化し、この警告はその後何度も発しています。
この暴利取締りについては、大正6年(1917)に物価高騰を抑えるため、当時の寺内内閣が「暴利取締令」を制定し施行したことに端を発しています。関東大震災時は、山本内閣が9月7日に「暴利取締令」を施行しました。この時は、生活必需品11品目を指定し、買い占めや売り惜しみ、不当な価格での販売を禁じました。そして、違反者には懲役3年以下、または3,000円以下の罰金が科せられました。
在米の量は十分…と思いきや?
さらに同じく9月2日、警察署は在米の調査を行います。この時の調査では、米の在庫は「1週間程度あり」との回答を得ましたが、 すぐに想定外のことが起こってしまいました。実は、すでに9月1日の夜から、小田原・真鶴方面から歩いて、たくさんの避難者がやって来たのです。日に日に避難者は増え、警察署前に無料仮泊所を設置し、にぎり飯の炊き出しを始めました。9月2日、3日約300人、4日約400人、5日約500人、6日約250人…と、炊き出しは半端な量ではありません。米の分量を減らし大豆を入れた豆入りのにぎり飯にするなど、苦心しています(9月4日)。
この炊き出しは、仮泊所が撤去される9月19日まで続きました。
米の廉売の始まり
7日頃には食料不足が顕著となり、町や警察署では、町内や平塚町、愛知県や静岡県 等から米などの買い入れの交渉を始めました。運搬には在郷軍人や青年団、漁業組合の応援を頼み、米の廉売(通常よりも安く売る事)も7日から始めています。
町役場の廉売は9日から始め、20日まで続きます。その間、小見助役たちは、廉売と雑務で、さらに激務の日々となりました。
ちなみに、この時の米の価格は1升38銭、現在の価格で約400円で、1人3升までの販売と決められました。
漁の再会と救助物資の到着
さらに、副食物不足のため、警察は9月1日以降出漁していなかった漁を開始するよう漁業組合に要請し、11日から漁が開始されました。またこの日には、大磯海岸沖に救助物資を積んだ駆逐艦「沼風」が停泊し、急ぎ食料品・日用品の供給を受けました。救助物資が届いたのは、震災以来この日が初めてとなります。12日には、買い入れを交渉していた食料品や救援物資が海路輸送で静岡県から届きました。陸揚げに軍隊の手を借りるほどの量となり、大忙しの日になりました。
注:駆逐艦「沼風」は、舞鶴で建造された、横須賀籍の日本海軍の船です。昭和8年(1933)3月3日 に発生した昭和三陸地震の時も、横須賀港から女川に向かい救助にあたりました。
食料事情の復旧
馬入橋の完成、渡し船の開始、道路の復興、交通機関の開通等、少しずつ流通が戻り、食料不足も解消してきました。無料宿泊所も閉鎖され、小見助役たちの廉売も20日で終了、それ以降は食料に関する記述がほとんどありません。大震災からほんの20日で、とりあえず食生活に関しては落ち着きが戻ったと言えるでしょう。想像以上に早い復旧です。震災後の町の職員や警察署員の頑張りと活躍は、驚くばかりです。
また、そればかりでなく、町の有力者たちや富裕層、一般町民からの多くの寄贈品、町民自らの人命救助や復興のボランティア活動など、困ったときの助け合いや相互扶助の精神を読み取ることができます。
現在の私たちは、いつ同じような震災が起こるかわからない時を迎え、100年前のような行動ができるでしょうか。これらの記録から、学ぶべきことはたくさんあります。
次回は11月24日(金曜日)に更新します。地震発生時の治安や人びとの不安感情についてお伝えします。
更新日:2023年11月17日