100年前の大磯 関東大震災特集7 大磯周辺の治安状況とその対応(その1)

更新日:2023年11月24日

大正12年9月1日。大地が揺れ動き、平穏だった日常は突然失われました。さらにさまざまな流言(デマ)が、人びとの心を揺さぶりました。今回は助役日誌と警察署の日誌に記録された震災後1か月間の出来事から、デマへの対応を中心に、当時の大磯警察署管内(大磯周辺地域)の治安状況について、まとめてみたいと思います。

関東大震災最初のデマ「津波が来る」

激震がおさまり、ぼう然とする人びとの間で最初に広がったデマは、「再び大きな地震や津波が来る」というものでした。当時はまだ地震のメカニズムは現在ほど詳しくわかっておらず、広く知られてもいません(100年前の大磯 関東大震災特集3参照)。見慣れた海岸の景色も、土地が隆起して様変わりしていました。人びとの心の中に、疑念が沸き起こったのは決して不思議なことではありません。

狼狽する人びとの様子を見て、大磯警察署(以下、ここでは警察と書きます)は急いで「大地震や津波は絶対に無い」という掲示を各所に張り出します(9月1日)。実は、その日のうちに東京では、中央気象台から「今後、地震や津波は無い」という報告が警視庁に届き、夕方には大量のビラが発布されていました。しかし、通信網がほぼ途絶えていた状況です。管内におけるこの掲示は、確実な情報を得ていたというより、署長・高橋栄吉の判断だったのかもしれません。

また、平塚方面には、何度も大きな爆発音と共に黒煙が沸き上がるのが見えたと言います。これは、平塚にあった海軍火薬廠内で発生した火災と爆発で、平塚町では他にも数か所で火災が発生していました。しかし、大磯では大きな火災は発生せず、警察や町役場、町民それぞれが救助活動に懸命になっていました。

避難者から伝わる「情報」

9月2日午前6時。警察署長は横浜市内から逃げてきたと言う人から、横浜の状況の詳細を聞きます。この時に初めて、都市部で起きた大規模火災の惨状や、暴動等の話を知ったようです。

余震はありましたが、この頃、大磯町内の人びとは、不安ながらも比較的落ち着いていたと言います。しかし、すぐに状況は変わります。国道沿いの町である大磯には、夜が明けないうちから東(東京方面)からも西(小田原方面)からも、避難者が続々とやって来ました。警察も町役場も、救護・食料・宿泊所の手配に追われていきます。

そして、避難者はさまざまな「情報」を町にもたらしました。ラジオもまだなく、唯一のマスメディアであった新聞は発行が止まり、さらに電話も不通となれば、正確な情報を得る手段はかなり限られます。避難者の疲労困憊した様子と、口々に話す惨状を見聞きして困惑した人びとが、真偽のほどを確かめるすべもなく、話の内容をそのまま信じてしまったのは無理もないことだったでしょう。また、避難者が通過し、宿泊所が設けられた平塚町でも、同様の事が起きていたと考えられます。

朝鮮人と解放囚人

やがて、さらに恐ろしいデマが広がり始めます。それが朝鮮人(朝鮮半島出身者)に関するデマです。

「集団となって暴動を起こし、襲って来る」「放火や略奪をし、井戸に毒を入れている」など、現在では、地震災害に伴って火災が同時多発的に起こることや、地盤の変動で井戸水に変化が出ることがあると周知されていますが、このデマは、それらを人為的なもの(放火や薬品の投入)と捉えたことから起きたと言われています。

また、当時の社会に、朝鮮半島出身の人びとに対して差別的な感情が少なからずあったことも、大きな要因だったでしょう。

人びとの動揺を感じた警察は、午前8時に出した掲示で、火災と盗難の警戒を、在郷軍人と消防組員とで協力していることを伝えます。この、警察に協力した警戒要員が、いわゆる「自警団」だったようです。後に青年団員も加わります。

一方で、巡査を派遣して管内に在住する朝鮮人たちに外出を控えるように伝え、雇用主や篤志家には彼らの保護を依頼します。

しかし残念なことに、さらに人びとの疑念に追い打ちをかける出来事が起きていました。横浜刑務所に収監されていた、囚人たちの解放です。実は、大磯においても地震発生直後に、警察署に留置していた1人を解放していることが、警察署の日誌に書かれています。このように、非常時における囚人の解放は、法律で定められており(監獄法:明治41年法律第28号第22条)、もちろん、間違った対応ではありません。しかし、多くの人びとにとってそれは想定外のことであり、恐怖を感じる出来事でした。

この恐怖心は、大磯周辺にも伝わり、ある事件が起こります。

誇張された通報

9月2日午後10時。警察署長は自ら平塚派出所へ赴き、朝鮮人や解放囚人への対応について話し、警戒するように訓示します。しかし、その30分後、平塚の須賀から、「解放囚人の朝鮮人を乗せた漁船1艘が来襲した」と言う通報が届きます。すぐに巡査部長らが駆け付けてみると、実際は平塚出身の解放囚人が3人見つかっただけでした。すぐに連行して、横浜ヘ護送することになります。

このことを受け、午後11時、警察は「不審者が侵入して来ると言う話は風評(うわさ)に過ぎない。在郷軍人・消防組員・青年団員に協力を求めて警戒しているので安心するように」という掲示を管内各所に出しました。

この出来事は、人びとが不安や恐怖心を抱くと、不安に思っていることが誇張され、話が創られてしまうことを物語っています。

戒厳令の発布

9月3日、神奈川県に、戒厳令・徴発令が発令されました。

注:戒厳令は、非常事態に際し、軍隊を派遣して統治すること。徴発令はそのための軍需を民間から徴取すること。

またこの頃、ようやく当局も、「朝鮮半島出身者の暴動」は流言(デマ)であるという情報をつかみ始めたと言われています。東京では警視庁が3万枚のビラをまいて、「みだりに迫害・暴行を加えることが無いよう注意」しました。しかし、この時点ではほとんどの警察署において、「一部だが、朝鮮人の妄動はあった」とされ、興奮状態になった「自警団」の暴走を止めることはできませんでした。

大磯にも、戒厳令の発布は人づてに伝えられてきました。警察署長は、前日の2日夜の事件を重く見たのでしょう。管内の町村長・在郷軍人・青年団・消防組に対し、東京・横浜の被害が甚大であることを伝えた上で、解放囚人についての警戒を依頼します。

100年前の大磯のコーナーでは省略しましたが、さらにこの日、警察は解放囚人3名を新たに検挙して横浜ヘ護送、同時に朝鮮人5名、中国人6名を小田原警察署ヘ送っています。この処置は、朝鮮人と同様に差別的な扱いを受ける可能性のある中国人を保護するためだったと思われます。このような保護処置は、この後も断続的に続けられていきます。

このテーマは、次回もつづきます。11月28日(火曜日)に更新します。

参考にした文献等は、次回にまとめて掲載します。

この記事に関するお問い合わせ先

教育委員会 教育部 生涯学習課 郷土資料館
〒255-0005
神奈川県中郡大磯町西小磯446-1
電話番号:0463-61-4700
ファックス:0463-61-4660
メールフォームによるお問い合わせ