100年前の大磯 関東大震災特集1 来なかった未来

更新日:2023年10月24日

大正12年10月21日~大正13年2月7日は、小見忠滋が助役職を退いていたため、日誌がありません。この間、4か月程は、大正12年9月に書かれていた関東大震災の記述を深堀りし、ご紹介する特集記事を、週に1、2回程度の頻度でお届けします。

特集第1回目は、来なかった未来。私たちは助役日誌を大正9年の記事、3年前から毎日更新してきました。日誌に書かれた出来事は、毎日、助役の仕事の中で起こる日常です。連続した記録を読むことによって、私たちは、大正12年8月31日まで予定されていた大正12年9月1日以降の未来が、関東大震災によって失われたことを知ることもできました。それでは、8月までは、どのような未来が予定されていたのでしょうか。改めて、8月の助役日誌を振り返ってみたいと思います。

神奈川県会議員選挙

8月に話題になっていたことの一つは、県会議員選挙です。8月1日の記事によると、町会議員や区長が集まり、大磯町からの候補者として町会議員の郷土久蔵を候補に推すことが決まりました。その後、8月の助役日誌には、県会議員選挙のために行われた協議のことや、説明会などのことが記されています(8月7日8月19日8月21日)。

実は、この選挙、9月25日が投票日の予定でした。そうです。この選挙こそ、来なかった未来なのです。この時の県会議員選挙は延期され、翌大正13年に実施されました。

盛り上がっていた海水浴場

大磯といえば海水浴場。毎年7月に入ると海開きが行われ(7月7日)、9月10日頃には閉場するのが、100年前当時の慣行となっていました(大正10年9月9日)。

おそらく、大正12年も9月10日頃の閉場を予定していたはずです。ところが、9月1日に関東大震災が発生したことにより、海水浴場どころではなくなってしまいました。改めて、特集記事でご紹介する予定ですが、大磯では、地震によって海岸が約2メートル隆起しています。救援物資の運搬に、港が活用されましたが、海岸の隆起によって港も整備しないと使えない状態になっていました。海水浴場も影響を受け、隆起した海岸を整備することも、大磯の復興における課題の一つでした。

大正12年の海水浴場は、さまざまな新しい試みがあり(6月25日)、簡易食堂の開設など、いわゆる民間の力を活用して、海水浴場を盛り上げていました(どこかできいた話ですが…)。地震が起こらなければ、この年の大磯の海水浴場は、もっと盛り上がっていたのかもしれません。

間一髪だった小見助役

最後に、世の中、本当に先のことはわからないというエピソードをご紹介します。「100年前の大磯」をお読みいただいている皆様の中には、気が付かれた方もいらっしゃるかと思いますが、地震の発生がわずか4、5日ずれていたら、小見助役たちは東京で被災していたかもしれなかったのです。8月27日、小見助役たちは、国勢調査員の慰労旅行として、皇居や新宿御苑を見学していました。特に、小見助役は、その後、高円寺の親戚を訪問し、東京に一泊、翌28日には神田の親戚も訪ねています。虫の知らせというのでしょうか。この時、小見助役たちは、東京が5日後に壊滅的な被害を受けることなど、知る由もありませんでした。

私たちの日常というのは、本当に一瞬のことで失われてしまうものです。日誌を毎日読み続けることによって、そのことを実感しました。

次回の特集記事は、10月27日(金曜日)に更新します。

参考

『神奈川県史』通史編5近代・現代(2)、p.313

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