大正12年10月4日
10月4日(木曜日)、午前8時20分出勤。
佐藤・加藤の両書記は、中郡役所へ注文した亜鉛板を、申込者に配布するため出張した。
加藤収入役は欠席。
戸籍謄本事務に従事。
藤田町長から平塚海軍火薬廠へ、電力供給の謝状が発せられた。
午後2時頃、藤田町長は、妙昌寺を学校として使用するにあたり屋起こしをするため、中村兼吉氏との交渉のため出張した。
午後6時頃より、藤田町長は工兵隊と打合せをするため、須馬村へ出張した。
同時に退庁。
解説
今日は、亜鉛板の配布を行っています。亜鉛板とは、亜鉛メッキされた鋼板・トタン板の事で、建築材として広く使われました。震災後の復旧に使われたと思われますが、中郡役所を通じて申込者に配布と書かれているところを見ると、枚数が限られていたのかもしれません。
震災により、大磯小学校は、全校舎が倒壊して使用できなくなりました。しかし、9月25日には学年別に町内のさまざまな場所に分かれて授業を再開しています。
記録によれば、利用したのは鴫立沢や海岸、別荘の庭園や松林、神社や寺院の境内などで、屋外授業がほとんどでした。余震を恐れてのことだったようです。しかし、10月に入ってからは、複数の建物が利用できるようになりました。妙昌寺はそのうちの一つで、小学校にほど近い東小磯に現存する日蓮宗の寺院です。
屋起こしとは、傾いた家屋の柱を垂直に直す作業のこと。このような経過をみると、子どもたちのために、早急に学習環境を整えようとしていたことが良くわかります。
また、この日は町長が海軍火薬廠に謝礼の書状を出しています。平塚にあった火薬廠は、被害に遭いながらも火力発電の設備を稼働させて、近隣町村への電力供給を行いました。さらに、大磯町では、9月8日に火薬廠から電動精米機を借り受け、翌日から購入した玄米を精米して廉売を始めることができています。そのような迅速な対応に対しての、謝礼だったと思われます(参照:9月5日、9月8日)。
なお、9月8日の記事では、助役日誌に「電気を借り入れた」とあることについて、解説で電灯への点灯を意味するという紹介をしましたが、その後、9月27日にモーターの返却に関する記述があることから、9月8日に借りた電気は、このモーターのことであったと考えられます。
参考
『大磯町史』7、p.437-438、443-444
更新日:2023年10月04日