大正12年4月7日
4月7日(土曜日)、午前8時20分出勤。
収入役が出勤前だったため、収入事務を取り扱った。
本日は、渡辺書記が親戚の葬式のため、午前10時に早退。藤田町長も親戚の葬式のため、藤澤中学校で開催される本県町村長会同は欠席すると電報を打ち、同時に早退した。
午後0時30分、船橋晋吉氏の母堂葬儀のため会葬、午後3時半帰場した。
その他、戸籍事務を取り扱う。
本日は、相模漁業株式会社において、ブリ大漁、朝網に約13,000尾あり。
鉄道省電架係の大磯出張所・吉見孝一郎氏が来場。学校構内1か所及び初竹屋支店脇1か所、倉田別荘脇の道路の傍らの3か所へ、電柱の釣線を設置してもらいたいと願い出た。町長に面会を求めてもらい、改めて回答すると告げた。
午後3時10分退庁。
午後5時頃、相模漁業株式会社より、ブリ1尾が贈られた。
解説
このところ葬儀が重なっています。小見助役が会葬した船橋晋吉は、この後、太平洋戦争中の昭和18年(1943年)から21年に、第19代大磯町長を務めた人物です。
鉄道省は、1920年(大正9年)に鉄道を管轄する官庁として設置されました。鉄道事業は、1872年(明治5年)の開業以来飛躍的に発展し、それに伴う鉄道網整備を充実させるため、政府はそれまでの「鉄道院」を昇格させ「鉄道省」としました。今回要望が出た電柱設置場所は、大磯駅から線路沿いに西へ少し行ったところです。
具体的な目的は何だったのか、この記述だけではよくわかりませんが、初竹屋支店は、路地を挟んで小学校の西隣りにありました。初竹屋は華族の別荘にも出入りする呉服商で、茶屋町に本店がありました。店主の荻野誠一は、町会議員も務めた人物です。後年、この店舗は文房具店となり小学生で賑わうようになります。
また、この日は、相模漁業株式会社からブリの贈呈がありました。100年前の当時は、このような差し入れが時折行われていたようです。町史などの資料によれば、この頃は不漁が続き、日誌にも、大漁祈願のため町会議員や役場吏員等が寺社に赴いた、という記載があります(大正12年1月16日・2月8日)。久しぶりの大漁。祈りが通じたと、大いに沸き立ったことでしょう。
参考
- 『大磯町史』7、p.422
- 小田部雄次『百年前のパンデミックと皇室』敬文舎、2020年、p.114-115
更新日:2023年04月07日