大正12年4月2日

更新日:2023年04月02日

4月2日(月曜日)、午前8時30分出勤。

午前10時15分、西小磯地区出身の志願兵・添田健三氏が除隊となったので、停車場で迎えた。

裁判所へ毎月送る届書の見出しを作製した。また、戸籍謄抄本事務にも従事した。

午後1時、郷土氏の妻君の葬儀に参加、会葬した。

農会総代の選挙について、いろいろと生じたので、午後3時頃、相応に対処した。新杵に茶菓を注文。代金1円。

午後4時50分退庁。

その後、午後5時頃、梨本宮殿下・同妃殿下・令嬢殿下が大磯駅に御下車。西小磯にある別邸にいらしたので、停車場で奉迎した。

午後7時頃、夕刊に北白川宮殿下がフランスで事故に遭われたとあり、ついに御薨去との報を拝聞した。

解説

今日の小見助役は多忙です。 まず午前中は、戸籍事務の間に除隊となった兵士を駅に出迎えています。志願兵とは、海軍に志願して兵役に就いた者を指します。兵役期間も、徴兵(陸軍)は2年でしたが、軍艦を操る技術を習得するのに時間がかかるとして、5年と長くなっていました。

午後、前月31日に亡くなった町会議員・郷土久蔵の妻の葬儀に会葬しています。郷土久蔵は、県会議員を経て第18代町長を務めた人物です。この頃は、大磯沖でブリの定置網漁を行う、相模漁業株式会社の社長でもありました。

さらに葬儀から戻ると、農会の集会でもめ事が起きていたようです。当時の農会は、農会法(1899年・明治32年施行)の下に町村・郡・府県と系統的に組織化されていましたが、4月からの郡制廃止に伴う組織改変で、町村ごとに独立した農会を作ることになりました。総代の選挙も、例年通りとは行かなくなったのでしょう(大正12年2月23日3月28日30日参照)。

夕方駅に到着した梨本宮の別邸は、1913年(大正2年)、西小磯西柳原(現在の旧吉田茂邸東側)に造られました。梨本宮妃伊都子(いつこ)は、長年日記をつけていたことで知られていますが、大磯で過ごした日々のことも、かなり詳しく書き残しています。また、小見助役が夕刊で知ったという北白川宮の事故とは、フランス陸軍士官学校へ留学していた北白川宮成久(なるひさ)が、自らの運転でドライブ中に起こした交通事故の事です。本人は即死、同乗していた房子妃と義弟の朝香宮鳩彦(あさかのみややすひこ)は重傷を負いました。

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