大正12年2月23日

更新日:2023年02月23日

2月23日(金曜日)、午前8時30分出勤。

午前8時26分大磯駅発の列車で、藤田町長・奥山・渡辺の3名が東京に行き、蜷川氏に面会を求めて、尽力を依頼する。

午前10時頃、山下別邸へ東久邇宮若宮殿下のご機嫌伺いをした。

戸籍謄抄本に忙殺された。

勧業主任会があり、渡辺主任書記は中郡役所に出張した。

午後2時半頃、独立農会を設置する運動のために、中郡北部10か所の町村の代表者が、伊勢原の高部屋から来場した。

午後4時50分頃、藤田町長らが東京から戻り、役場に立ち寄って、蜷川氏訪問の概況を述べられた。

午後5時10分退庁。帰宅後、渡辺氏から蜷川氏訪問の詳細を聞かされた。

解説

小学校敷地拡張の件で、藤田町長らの3人は東京の蜷川博士宅を訪問しました。帰ってからの報告と渡辺氏からの説明については具体的に書かれていませんが、どうだったのでしょうか。気になるところです。

留守番組の小見助役は、山下別邸へ滞在中の皇族へ挨拶し、戸籍謄抄本の作業、伊勢原高部屋からの訪問者の対応と、相変わらず忙しい一日でした。

渡辺主任書記の出席した勧業主任会とは、農工商業などの産業が盛んになるよう経済を発展させるための会議です。産業の発展のために明治時代には、政府主導で内国勧業博覧会が10回ほど行われており、入場者が多く盛況だったようです。

既存の農会は、1899年(明治32)農会法によって公認された農業団体が、町村・郡・府県と系統的に組織化されていました。大正12年4月1日に郡制廃止が施行されることになり、町村ごとに独立した組織の農会をつくるため、高部屋から代表者が相談にやってきました。

郡制廃止の理由は、郡役所は中央行政の下達する機関に過ぎず、煩雑化をもたらし、各自治体の実績が乏しいとしてかなり前から問題とされてきました。原敬が首相の時「郡制廃止に関する法律案」を提出し、1921年(大正10)4月12日に可決されました。 後日談として、戦時中の1940年(昭和15)府県の出先機関として地方事務所を設置、事実上郡役所が復活しました。

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