100年前の大磯 関東大震災特集11 別荘の被害
別荘地大磯の始まり
江戸時代まで宿場として栄えていた大磯は、明治に入り宿駅制度の廃止の影響で、経済的に苦しい時を迎えていました。そのような時、海水浴療法に適した場所を探していた医師・松本順が大磯にやってきました。大磯の照ヶ崎海岸が最適であることを知り、明治18年(1885)健康増進、予防医学の考えに基づいた日本で初めての海水浴場を大磯に開設しました。
その後、松本順は、鉄道敷設工事の際には、当初予定になかった大磯駅をつくるよう伊藤博文や山縣有朋らに働きかけ、明治20年(1887)に大磯駅がつくられました。駅が出来たことにより、海水浴客も年々増え、臨時列車が増発されるほどになりました。そして、政治家、財界人、文化人たちが、温暖な気候の大磯の地に別荘を構えるようになり、明治から大正、昭和と、大磯は別荘地として生まれ変わりました。特に、明治29年(1896)、初代内閣総理大臣・伊藤博文が自邸を構えたことで、政治家、財界人の別荘が次々と建てられ、「政界の奥座敷」とまで言われるようになりました。明治41年(1908)の新聞による避暑地のアンケートでは、大磯が1位に選ばれ、日本一の別荘地として全国に知れ渡りました。当時の富裕層にとって、大磯に別荘を構えることがステータスになっていたようです。
松本順とは?
天保3年(1832)、蘭方医・佐藤泰然(現在の佐倉順天堂医院の創設者)の次男として生まれ、18歳の時、幕医・松本良甫の養子となりました。長崎で蘭医学を学び、将軍家茂や慶喜の医師として幕府に仕えました。
戊辰戦争では、幕府側の医師として会津まで出向き、負傷者の治療をしました。敗戦後は、2年ほど幽閉されましたが、陸軍大将・山縣有朋に懇願され、初代陸軍軍医総監として、兵士の健康と体力増強に尽くしました。
退官してからは、不治の病が多かった当時の国民の健康を守るため、海水浴療法が良いことを実践するため、大磯に海水浴場をつくりました。牛乳が健康に良いことやマスクの効用を広めたり、海水浴客を増やすために人気の歌舞伎役者を呼んだりしました。松本順は大磯で亡くなるまで、大磯の海水浴を宣伝し、町の発展に貢献した大磯の恩人として、地元では知られています。
別荘の復旧
関東大震災では、大磯町でもたくさんの家屋が倒壊しました。町全体では、全壊・半壊・破損の家屋数約950件のうち、多くは丘陵の裾やその付近であり、海岸に近い国道沿いでは、比較的家屋の倒壊が少なかったという特徴がありますが、倒壊した家屋の中には、別荘も多く含まれていました。被害を受けた別荘の内、著名なものは次のとおりです。
所有者 | 所在地 |
三井八郎右衛門 | 国府本郷(現在の県立大磯城山公園旧三井別邸地区) |
李王家 | 西小磯(旧伊藤博文邸・滄浪閣) |
鍋島直映 | 西小磯 |
酒井忠亮 | 西小磯 |
片岡恒太郎 | 大磯(大磯駅北側) |
加藤正義 | 大磯(大磯駅北側) |
高田慎蔵 | 茶屋町 |
梨本宮家 | 西小磯 |
加藤高明 | 東小磯 |
古河虎之助 | 東小磯 |
中橋徳五郎 | 神明町 |
安田家 | 山王町 |
高木兼寛 | 神明町 |
中島久万吉 | 山王町 |
上記の被害を受けた別荘では、片岡恒太郎夫妻が亡くなり、加藤正義が負傷しています。なお、高田慎蔵と高木兼寛は、当時、すでに没していたため、正確な所有者は、親戚関係者と考えられます。
また、大正10年(1921)4月の別荘所有者調査結果と、昭和初期の調査結果を比べると、別荘数が約半数に減っています。山手の広大な別荘のほとんどが倒壊や大きな被害にあい、次々と取り壊されて行きました。その廃材を、東京に持っていくこともあったようです。大磯に別荘を持っていた人たちのほとんどは、東京に本邸があります。本邸の復旧を優先させ、別荘の地を離れることは仕方がないことでした。
大磯に残った別荘所有者の一人、加藤高明(第24代内閣総理大臣)は、大正13年(1924)に倒壊した別荘の再建を急ぎ、翌年12月に完成しました。助役日誌によく出てくる岩崎邸は、大正13年秋に落成しました。伊藤博文から譲り受けた西小磯の李王世子の別荘も、大正15年(1926)3月には改築工事が完成しました。
明治27年(1894)に別荘を構えた陸奥宗光邸の建物は倒壊し、相続した古河虎之助が新しく立て替えたのは昭和5年(1930)、現在の明治記念大磯邸園内にある建物です。他の大別荘の復旧は遅れがちで、大正15年時点でも、徳川家、中島家、三島家、島津家、村井家、三井守之助の別荘はようやく後片付けができた程度で、再建の見通しさえありませんでした。
大正15年の別荘数229件と昭和2年(1927)の別荘数203件を比較しても変化が少ないことから、数年間は手付かずの状態だったと思われます。しかしそれ以降、別荘の取り壊しが進み、昭和初期には114件と激減しました。建物は残っていても、相続や譲渡により所有者が変わった別荘も多くあります。関東大震災の被害が比較的少なかったことから、大磯の地がまた注目されるようになりました。
分譲されて比較的小規模の別荘や住宅が建てられるようになり、別荘地大磯も大きく変化していきました。助役日誌に出てくる三輪別荘(所有者・三輪俊治または八百吉(10月5日))は、震災直前に現在の消防署の向いに別荘を建てています。昭和2年調査の別荘所有者には記載されていますが、その後別荘を取り壊しました。大磯とは短いご縁でしたが、震災直後から庭を開放し、無料宿泊所や湯呑所として場所を提供しました(9月2日)。
小見助役たちは、連日、米の廉売をしていました。大雨の日に自転車小屋を借りて廉売をした山口勝蔵邸は、現在の大磯迎賓館です。貿易商・木下建平(山口勝蔵の義弟)が大正元年頃に建てた別荘で、当時はあまり例のないツーバイフォーの建築です。駅舎が倒壊、近隣の建物が被害を受けている中で、唯一壊れなかった建物です。現在築112年、国登録有形文化財(建造物)、景観重要建造物に指定されています。
次回は、12月22日(金曜日)に更新します。関東大震災で大きな被害を受けた、町の財政状況などを紹介します。
参考
『大磯町史』7
鈴木昇『大磯の今昔』(九)、2000年
『大磯町史』3、p.496~501、322「大磯町の別荘所有者調査」
『大磯のすまい』大磯町教育委員会、1993年
更新日:2023年12月15日