100年前の大磯 関東大震災特集10 駅と鉄道

更新日:2023年12月08日

地震が起こった9月1日の助役日誌には、列車の転覆事故について、次のように書かれています。

「午前11時56分、浜松発東京行の列車が、大磯停車場を出発して東海道踏切付近を進行中に転覆。即死者8名を出し、重軽傷者36名を駅長・駅員・駅夫等と共に救護した」

この記述からも、大変大きな災害が発生したことがわかります。関東大震災による列車の脱線・転覆は、大きなものにこの大磯で起きた転覆事故と、根府川駅(現小田原市)で駅の背後の山が崩落し、駅ごと海に落下した事故が挙げられます。このように大地震が鉄道に与えた被害は、たくさんの人命を奪いました。今回は、大磯と周辺地域の鉄道被害を見ていきます。

東海道線の被害

地震による鉄道の被害は、揺れによる駅舎の倒壊、鉄橋の崩壊・破壊、築堤の崩壊、土砂崩落による線路の破壊、通信線の切断等により鉄道業務実施が継続不能となったことで、特に、大磯周辺の東海道線(現在の御殿場線を含む)、熱海線(現在の国府津より真鶴まで)の被害は、震源が近かったこともあり、非常に大きいものでした。まずは、東海道線の被害状況をまとめます。

丹那トンネルの開通は昭和9年(1934)ですので、関東大震災が起こった当時の東海道線は、国府津より沼津まで現在の御殿場線を使用していました。

駅舎については、大船から以西の松田まで、全て倒壊あるいは大破しました。鉄道運行上必要な諸施設、レール・給水設備・信号所・通信設備も壊滅的な被害を受けました。

特に、現在の御殿場線は、地震が相模トラフ沿いに発生したため、地震の直撃を受けたと思われ、国府津より北の各駅の駅舎は全壊、築堤がずたずたに崩れました。線路を設置するための路床は原型を止めないほど破壊され、レールは切断され、変形しました。山間部の谷峨付近では、トンネルの入り口の崩落、鉄橋の破壊が顕著でした。

相模川に架かる馬入川鉄橋は、橋脚が2本を残しすべて破壊され、大小の鉄橋も同じように破壊されました。馬入川鉄橋の壊滅は、首都圏の物流にとって致命的でした。震災の被害を受けなかった地域からの物流や支援が、陸路ではほとんど受けられなくなってしまいました。

馬入川鉄橋の修復は、津田沼の陸軍鉄道第二連隊が担当しましたが、本格的に修復されたのは11月になってからです。崩落した鉄橋の橋脚は、現在でも電車の車窓から川面に見ることができます。東海道線が全線にわたって復旧するのは、大震災から3か月後のこととなりました。

熱海線

熱海線は、現在の国府津駅から真鶴駅までの区間になります。

駅舎、鉄道の諸施設については、東海道線と同様の被害を受けました。特記すべきことは、 酒匂川の鉄橋です。この橋は、大正9年(1920年)に建設された新しい鉄道矯でした。震災で一部破壊されましたが、大きく損傷することはなく、震災後1か月で復旧し、地域の復興のための物流に、大きな役割を果たしました。熱海線の復旧は、小田原が県西部の復興の中心となることに、大きく貢献しました。

熱海線と東海道線内で起こった二つの転覆事故

最も大きな事故は、根府川駅に停車していた列車が、駅ごと海に落下した事故です。当時の熱海線は単線で、震災当時、この根府川駅で上・下列車が待ち合わせ、行き違わせるダイヤが組まれていました。下りの列車が根府川駅に到着した時、まさに最悪のタイミングで地震が発生しました。下り真鶴行き列車(蒸気機関車と客車8両)は駅構内の敷地もろとも垂直落差45メートル、距離にして75メートル先の海へ落下しました。

後ろの客車2両は連結器が切断して海岸に横たわり、残りの車両は海中に沈みました。海中で車両から脱出して海岸まで泳ぎ着いたり、付近を航海中の船に救助されたりした生還者もいましたが、全乗客乗員約150人のうち約100人が死亡または行方不明となり、根府川駅にいた人びとの中には、生存者はいなかったとされています。

また、東京行き上り列車は、真鶴―根府川間のトンネル内を走行中に地震に遭い、機関車がちょうどトンネル出口に差し掛かった時に、外で土砂が崩落。機関車は埋没し、乗務員2人が亡くなりました。乗客は、当初、全員無事でしたが、救助にかけつけた職員と共にトンネルから歩いて外に出た人たちは、直後に山崩れに遭い、旅客数名と職員6人が亡くなりました。

この事故は、根府川駅の背後にあった、箱根外輪山が地震により白糸川沿いに土砂崩れを起こし、駅もろとも海に崩れ落ちたことが原因でした。この山津波によって根府川の集落は159戸中78戸が埋没し、189人が亡くなりました。

大磯―平塚間の列車転覆事故は、大磯駅を1分遅れの11時57分に発車した12両編成の普通列車が、平塚に向かっていたところ、東海道踏切付近の築堤を走行中に地震に遭遇、機関車と前より3両が脱線転覆し、脱線した4両目の車両に5両目が突っ込みました。乗客8人が即死、乗客乗員45人が重軽傷を負いました。

東海道線では、レールを敷いている築堤が沈下崩壊する被害が多く、この事故も築堤の破壊と地盤の隆起により、列車の安定を保てなかったことが原因と考えられます。 大磯駅の近くの事故であったため、大磯駅長、駅職員、工夫が救助にあたりました。また、近くの大平自動車は、負傷者を同社の車庫に収容し、付近の医師が応急手当に当たりました(9月1日)。

この時、大磯の駅舎も倒壊し、隣接する駅長官舎にいたと考えられる駅長の子女は、瀕死の重傷となり、その後、亡くなっています。状況から考えると、駅長は家族の死に立ち会えなかったではないかと想像され、胸が痛みます。

救援と復旧

作家の井伏鱒二は、当時早稲田に住んでいました。中央線を利用して郷里の広島へ避難する際の記録に、救援に関する記述があります。それによると、乗車賃は無料で、主な駅では愛国婦人会が食料と水の差し入れをしていました。また、警察、町村、軍隊、在郷軍人会、近隣住人らが救援に当たっています。現在のように、個人がボランティアとして、遠方から参加することはなかったようで、各団体の活動が目立ちます。根府川駅の惨事では、近隣の集落自体も大きな被害を受けており、援助の余裕はなかったでしょう。

復旧は、東海道線は比較的早く、10月28日に営業を再開しています。最も復旧が遅れたのは、根府川駅周辺の鉄道施設 (鉄橋、駅舎、路盤、レールの施設等)で仮設復旧が終了したのは、翌大正14年(1925 年)3 月12 日でした。復旧工事では、当時千葉県習志野にあった陸軍鉄道第二連隊が活躍しました。

鉄橋の復旧では、大小の木材を使って仮設橋が作られました。ちなみに、当時民間が運営していた軽便鉄道の熱海鉄道(真鶴―熱海)は、復旧の目途が立たず廃線となりました。

次回は、12月15日(金曜日)に更新します。大磯ならではの別荘の被害を見てみましょう。

参考

田中正敬「関東大震災における鉄道の被害と復旧―国有鉄道の『震災日誌』を手がかりとして」(『専修大学人文科学研究所月報』298、2019年2月)

内田宗治『関東大震災と鉄道』新潮社、2012年

武村雅之『関東大震災』鹿島出版会、2003年

井上公夫編『関東大震災と土砂災害』古今書院、2013年

東京鉄道局写真部編『関東大震災鉄道被害写真集』吉川弘文館、2020年

鈴木昇『大磯の今昔』(九)、2000年 

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