大正10年6月30日
6月30日(木曜日)、午前8時出勤。
中西巡視は、船橋工夫と共に里道を巡視した。
午後1時頃から中郡主催の山梨陸軍大臣の祝賀会やその他の件で、三宅・奥山・二宮の3氏を町役場へ召集して、藤田町長と共に協議した。明日1日の高来神社の氏子惣代協議会で、町会議員も召集して協議をすることになった。
午後2時10分、藤田町長は中郡役所に出頭された。
午後4時10分退庁。
解説
大正10年6月9日に、山梨半造は陸軍大臣に任命されました。当時の内閣総理大臣は原敬、海軍大臣は加藤友三郎です。山梨の出身地は、現在の平塚市下島で、江戸時代は名主を務めた山梨家の次男でした。
山梨も、6月23日の日誌で紹介しました、渡辺廣三や吉田茂が学んだ藤沢市羽鳥にあった耕余塾で学びました。明治10年(1877)に13歳8ヶ月で入塾し、明治16年4月には19歳で助教となりましたが、間もなく退学します(『名宰相吉田茂と学舎耕余塾』p.53より)。その後、陸軍士官学校・陸軍大学校を卒業しました。
中郡として、陸軍大臣の就任祝賀会を開催するために、町会議員一同を集めて協議するようです。就任祝賀会の様子は、7月10日の記事に詳しく書かれていますので、お楽しみに!
山梨は陸軍大臣を大正12年(1923)9月2日まで務めましたが、大臣を務めていた期間は、第一次世界大戦後のワシントン軍縮会議で海軍の軍縮が決まり、議会の要求で陸軍も軍縮を実施します。この軍縮は、「山梨軍縮」と言われています。
更新日:2021年06月30日