大正9年12月23日

更新日:2020年12月23日

12月23日(木曜日)、午前8時20分出勤。

午前10時半頃、西小磯地区漁業関係者と西小磯両区長の4名で町長に面会を求め、西小磯の小台網の継続申請が出された件を、町長に依頼した。午前11時半頃、退場。4名は、続いて、国府津村の椎野郁氏を訪問したが、椎野氏が横浜に出張していたため、そのまま横浜へ行き、椎野氏と交渉した結果、西小磯の小台網の継続申請の提出を、28日まで見合わすことになった。

午前11時40分頃、藤田町長は米の売止に関する協議会のため、中郡役所へ出張。

午後4時15分退庁。

解説

12月14日の記事にあった西小磯の小台網の申請について、動きがありました。前日12月22日に西小磯関係者が協議を行い、この日は、その協議を踏まえて、関係者が町長に相談しに来たようです。

この小台網の件は、当時、漁業者たちを賑わせていたブリ(鰤)漁に関係しています。

大正4年(1915)から始まった大磯のブリ漁は、大正5年に豊漁を見たものの、大正9年頃は不漁続きになっていました。12月21日には、当時、大磯漁業組合などから漁業権を借りてブリ漁を行っていた、大磯鰤敷網組合と丸越漁場が合併し、相模漁業株式会社が設立されました。(『大磯町史』7、p.339-340)

このような背景がある中、国府津村の椎野郁が、西小磯に小台網を仕掛けて漁を行う権利の継続を申請し、その申請を知った西小磯の関係者が、椎野の動きに反対して、交渉を始めました。取りあえず、椎野の申請は28日まで見合わせることになりましたが、どうなるのでしょうか?

米売止めとは、この時期の米が大暴落していたことに由来します。1918年(大正7年)の米価暴騰が米騒動を引き起こしましたが、第一次世界大戦の戦後不況で1石あたり51円まで値を上げていた米価が暴落しました。米価の安定を図るために協議会が開かれたようです。

1921年(大正10年)4月には、「米穀法」が公布されました。政府が米価が下落した時に、財政資金を使って市場から米穀を買い入れて貯蔵し、それを米価高騰時に売り渡すことで、米価を安定させる政策です。

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