100年前の大磯 関東大震災特集16 学校の被害と復旧

更新日:2024年01月26日

関東大震災は、各種の学校をはじめ、幼稚園、図書館など、教育分野の施設にも多大な被害を及ぼしました。ここでは、神奈川県全体の被害の概況と共に、特に大磯小学校・国府小学校が受けた被害とその後の復旧について記述します。

なお、現在の国府地区は、当時は「国府村」として大磯町とは別の「村」でした。そのため、被災後の対応には違いがあります。

また、当時は現在と学校の制度が異なり、6年制の尋常小学校(義務教育)と、進学先として2年制の高等小学校が併設されていました。大磯小学校の正式名称は「大磯尋常高等小学校」、国府小学校は「国府尋常高等小学校」と言いました(この記事では、それぞれ大磯小学校・国府小学校と記述します)。

さらに、大磯小学校の校内には高等小学校卒業後の女子の進学先として、2年制の女子補習科も置かれていました。

神奈川県下における教育施設の被害について

『神奈川県震災誌』の記載によると、この大震災で神奈川県下では、県立・公立・私立の学校(師範学校・中学校・高等女学校・小学校・盲学校など)をはじめ、公立・私立の幼稚園や、図書館も大きな被害を受けました。そのうち小学校は、281校の内181校が被災し(全焼26・全潰73・半潰82)、教員39名が亡くなり、33名が負傷しています。中郡だけを見ても小学校30校の内29校が被災し、大磯をはじめ平塚・須賀・馬入・神田・旭・伊勢原・比々多・大根・北秦野の10校が全潰、その他19校が半潰しました。

注:「全潰」「半潰」は、現在の「全壊」「半壊」とほぼ同じ意味です。ここでは当時の資料に基づき「全潰」「半潰」の表記にしました。

大磯小学校の被害

地震発生時、大磯小学校は、現在より敷地は狭いものの、ほぼ同じ場所(東小磯)にあり、明治34年(1901年)築の木造校舎を使用していました。幸いなことに、児童等は午前中で夏休み明けの始業式を終了して全員下校しており、校内で被災することはありませんでした。また校内には霜島新七校長以下、訓導(教員)・職員・養成講習員等30名余りが居ましたが、多くは唯一倒壊しなかった校舎(職員室棟)内にいたため、死傷者もありませんでした。

しかし、全体の被害が甚大だったことが、以下のように詳細に記録されています。

総損害金額40,698円相当(総面積581坪)

2階建て校舎(4教室) 1棟 全潰
平屋建て校舎(5教室) 1棟 全潰
平屋建て校舎(6教室) 1棟 全潰
平屋建て校舎(8教室) 1棟 全潰
2階建て校舎(職員室他4室) 1棟 半潰
小使室・便所・物置 各1棟 全潰
御真影奉安庫   倒壊(御真影は無事)
注:御真影奉安庫とは、大正天皇・皇后の写真と教育勅語を納めた建物のこと。

備品等の各損害数と金額

机/腰掛 350脚 1,100円
教壇 30台 250円
黒板 21枚 210円
小黒板 42枚 126円
教室用戸棚 20個 100円

その他、理科室の部品が全て破損

授業の再開

校舎の全潰で休校を余儀なくされた大磯小学校ですが、9月25日から28学級を25学級に縮小し、次のように学年ごとに分散して、さまざまな場所に仮教場を設け、屋外授業を開始しました。

学年 場所
尋常科1年 鴫立沢・樺山別邸跡庭園(台町)
尋常科2年 台町海岸
尋常科3年 樺山別邸跡庭園(台町)
尋常科4年 御嶽神社境内(東小磯)
尋常科5年 妙輪寺(北本町)
尋常科6年 徳川別邸の松林(台町)
高等科1、2年 古河別邸の松林(東小磯)

屋外に設定したのは、余震を恐れてのことでしょう。授業は午前午後の2部制だったようです。ちなみに、神奈川県下全体では、最も早い学校で9月10日、遅くとも10月初旬には全校授業を再開しています。

10月に入ると、大磯小学校は、全潰を免れた校舎の一部が使用できるようになりましたが、さらに次のような建物も仮教場として提供され、授業が続けられました。

クラス 場所 利用開始日
尋常科1年男子・3年男子 メソジスト教会(日本基督教団・大磯教会)(茶屋町) 9月25日
尋常科1年女子・3年女子 山王町青年会館 9月25日
尋常科1年女子・3年男女 地福寺(南本町) 10月10日
尋常科4年・2年 妙昌寺(東小磯) 10月15日
尋常科5年 妙輪寺(北本町) 9月25日
尋常科6年 学校の一部 10月20日

その他、金龍寺(西小磯)、大磯座(劇場・北本町)、千葉別荘庭園(茶屋町)、小磯青年会館

助役日誌には、翌大正13年(1924年)4月10日、霜島新七校長と共に、借用した建物の所有者等に対し謝礼金を持って挨拶に回ったこと、13日には同様に別荘所有者等に御礼状を送付したことが記録されていますので、分散授業はこの頃までには解消されていったと推測されます。

校舎の復旧と再建

大磯町では、小学校の授業をまずは早急に再開させることが重要と考え、屋外や建物を借用して授業を継続させましたが、震災翌年の大正13年(1924年)1月、応急対策として、校庭に仮校舎を建設することを決めました。しかし資金が不足し、調達する手段がありませんでした。そこで、震災後の治安維持のため派遣されていた憲兵隊が3月をもって引き揚げるのを機に、憲兵隊分遣所として使われていた建物(バラック)の払下げを、陸軍大臣に請願します。5月、4棟(57坪5合)の建物が無償で払下げられることが決まり、その資材を利用して、7月25日に仮校舎が完成しました。

実は、大磯町は震災前の大正12年(1923年)2月から、児童の増加などで手狭になった校舎の増改築計画を立て、敷地拡張のために隣接する岩崎家(別邸・岩崎久弥所有)と中川嘉一郎家に土地の譲渡を交渉していました。しかし、この計画は大震災によって中断してしまいます。 拡張計画が再び動いたのは、大正13年(1924年)3月でした。

まず、中川嘉一郎との間で土地売買契約が成立し(東小磯1・2番地)、続いて5月には、岩崎家からの敷地寄附(台町1161番地3他6筆)が確定しました。 敷地を確保した大磯町は、震災から2年後の大正14年(1925年)4月には小学校新校舎の設計に着手し、9月から工事を始めます。翌大正15年(1926年)3月14日、講堂・第1校舎・第3校舎が竣工して開堂・開校式典が行われました。同時期に校舎の一部を使用して、町立大磯幼稚園も開園します。続いて昭和4年(1929年)3月には第2期工事を起工し、同年12月に第2校舎・本館が竣工して全工事が完了しました。完成落成式典は、昭和5年(1930年)3月8日に行われています。

完成した木造2階建ての新校舎には、大磯尋常高等小学校の施設ばかりでなく、大磯実科高等女学校(現・県立大磯高等学校の前身)も併設されました。また校舎内には、新たに「図画教室(美術室)」「唱歌教室(音楽室)」「家事教室(家庭科・調理室)」「手工教室(技術工作室)」「理科教室」、畳敷き和室の「作法教室」など、備品に至るまで、当時の学校設備としては最先端の教室が作られました。

また、大磯町では、大磯小学校の被害に対し、町内の別荘所有者・篤志家等から、多額の寄付金や寄贈品(ピアノ・人体模型・備品等)があったことが記録されています。その他にも、千葉松兵衛(実業家)は、別荘の庭を仮教場として提供するにあたり、敷物(児童用藁筵)や教師用椅子を提供したと言われています。岩崎家からの寄附で得た敷地は、広い運動場となり「菱蔭(りょういん)広場」と呼ばれました。

しかし、将来への投資とも言えるこの新校舎建築費は高額になり(総工費・219,445円)、他の震災復興費用等と合わせると、その後の町の財政に負担となったことは否めません。町はそれらの不足分を、全て県からの借入金で賄っています。学校関連のものとしては、「小学校震災復旧費」として、まず大正13年(1924年)3月18日に42,000円を利率4.8%・3年据置28年賦返済で借入れ、さらに大正14年(1925年)3月から昭和4年(1929年)まで4回に分け、「小学校設費」として総額22万9千円を利率5%・3年据置後30年賦返済で借入れています。

その結果、昭和5年(1930年)頃まで返済額は毎年、町歳入額の約4分の1を占めました。

国府小学校の対応

国府小学校(現在と同じ場所に位置)では、既存の校舎の被害は甚大にならず、大正8年(1919年)に落成した新校舎(平屋建て)の屋根瓦が落ち、傾いただけで済みました。しかし、地震発生時、校長・小川猶吉以下訓導(教員)らが、激しい揺れで転倒する器具類や落下物の中を、辛うじて外へと脱出した様子が、同校の「震災日誌」として書き残されています。また、大磯小学校同様、児童らは下校した後で、校内で被災した児童はいませんでしたが、残念なことに自宅において2名の児童が亡くなっています。

甚大な被害はありませんでしたが、校舎が傾いてしまったため、この傾きを直し、落ちてしまった屋根瓦の代わりに屋根に杉皮を貼るなどの処置を施して、授業が再開されました。大正12年度の卒業式も、無事に執り行われました。翌大正13年度には、屋根の亜鉛葺(トタン屋根)工事が完成し、この校舎は昭和37年(1962年)に新館が竣工するまで使用されます。

また、大磯町と同様に、国府村でもこの復興工事にあたっては、大正13年(1924年)1月に9千円を県から借入れました。こちらも利率4.8%・23年賦返済です。

その後、国府小学校においても、震災を経て残った校舎は明治27年(1894年)建築のこともあって傷みが進み、国府村の人口増加に伴う児童数の増加で、校舎の増築が必要となっていきます。 この後、昭和11年(1936年)、隣地600坪の敷地を買入れ、平屋建ての校舎が増築されました。

関東大震災では多くの教育施設が失われ、多数の児童・生徒等が学習の場を失いました。神奈川県は、『神奈川県震災誌』の中で、「震災の被害甚大なるも国民教育は一日も緩にすべからず」と記していますが、政府をはじめ被災した各町村は、皆同様の危機感を持って、教育環境の早期復旧に力を注いだのでしょう。

100年前の当時、最新設備を備えて建て直された大磯小学校の木造校舎と、修復・増築を重ねた国府小学校の旧校舎は、時代の推移と共にコンクリート建築の校舎に代わり、現在その姿を見ることはできません。しかし、大災害からの復興を目指す中で、困難を乗り越え、当時の子どもたちにさらに豊かな教育環境を与えたいと、多くの人びとが努力したことを、残された資料から感じ取ることができます。

大正12年10月20日の記事をもってお休みしていた助役日誌は、2月8日から再開します!次回、2月8日(水曜日)からの更新では、再び、助役日誌の続きを毎日ご紹介していきます。これまでの特集で簡単にまとめた震災からの復興の様子を、ライブ感覚でお読みください。

参考
  • 『神奈川県震災誌』1927年、p.321~381
  • 『大磯町史』7、2008年、p.435~442、483~484
  • 『大磯の今昔』(四)、1990年、p.78~81
  • 国府小学校編『開校100周年記念誌こくふ』1973年

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