100年前の大磯 関東大震災特集4 国府地区の被害

更新日:2023年11月10日

現在の大磯町国府地区は、関東大震災が起こった100年前は、国府村という、大磯町とは別の村でした。そのため、助役日誌からは、ほとんど現在の国府地区の被害状況がわかりません。今回は、国府地区の被害状況をまとめます。

国府村全体の被害状況

次の表は、国府村も含めた大磯町周辺の被害状況をまとめたものです。『神奈川県震災誌』を参照しました。

町村名 全潰 半潰 破損 完全 全焼 半焼 全流 半流 死亡 負傷 行方不明
大磯町 245 205 1,199 0 0 0 0 0 33 157 0
国府村 407 168 106 16 0 0 0 0 25 27 1
吾妻町 400 462 349 8 6 0 0 0 27 42 0
平塚町 1,387 911 527 52 6 0 0 0 275 45 0
秦野町 351 1,457 - - 232 5 - - 21 27 1

国府村の全潰は407戸と大磯町の245戸と比較してだいぶ多いです。死者数は25名で、大磯町の33名(列車転覆による死者数8名を含む)とほぼ同数です。火災の被害は、大磯町と同じく無し。平塚町・秦野町等は火災が発生していました。国府村は、全潰・半潰・破損戸数が多い割には、負傷者が少なかったようです。

注:「全潰」「半潰」は、現在の「全壊」「半壊」とほぼ同じ意味です。ここでは当時の資料に基づき、「全潰」「半潰」の表記にしました。

国府小学校の被害

国府小学校は大正8年(1919)に落成した新校舎で、全壊はしませんでしたが、瓦が落ち、柱などが傾きました。そのため、卒業式に間に合うように、屋根に杉皮を貼るなど、応急処置がなされました。この屋根は、翌大正13年(1924)に亜鉛葺(トタン葺き)に修復されました。この当時の校舎は、昭和37年(1962)に新校舎が完成されるまで使用されました。

震災当時の学校の様子は、教師が記した『震災記録』に記されています。この記録には、地震発生当時の職員室の様子が記されていて、地震の揺れの激しさで逃げ惑う訓導(教職員)や、柱が傾き、大きく動いた様子が生々しく報告されています(『大磯町史』7、p.437)。

黒岩地区の被害

黒岩地区には、関東大震災を伝える記録が残されています(『大磯町史』3、p.628~630)。この記録には、地震発生時の様子と地域の被災者名や被害数の記載があります。それによると、この地区では、全壊戸数が27戸(正泉寺と池之神社を含む)、半壊10戸、死者4名、負傷者2名の被害がありました。

この記録には、被災者の氏名の後に、天皇からの下賜金に関する記述があります。この下賜金について調べましたところ、死者・行方不明者へは16円、負傷者へは4円、全焼・全流失は一世帯あたり12円、全壊は一世帯あたり8円、半壊・半焼・半流失は一世帯あたり4円が下賜されました。2年以内に町村へ申請することによって、下賜金を受け取ることができました。

神社や寺院の被害

黒岩地区では、正泉寺や池之神社が全壊しましたが、国府地区全体でも、神社や寺院の被害が見られます。六所神社では鳥居が倒壊し、現在の鳥居の前に建てられていた鳥居には、大正12年9月の震災で倒壊し、大正15年(1926)6月に修理して復旧したことが刻まれていました。

また、現在の二宮町との境にある蓮花院は、関東大震災で倒壊し、昭和11年(1936)10月27日に修築されたことを伝える碑文が残されていました(現存せず)。

また、寺坂の八坂神社の鳥居も関東大震災で倒壊したと記されています。

次回は、11月14日(火曜日)に更新します。国府地区で関東大震災を体験した、体験者の証言をご紹介します。​​​​​

参考

『大磯町史』3

『大磯町史』7

『大磯文化財調査報告書』第36集

『大磯文化財調査報告書』第40集

神奈川県編『神奈川県震災誌』1927年

名古屋大学減災連携研究センター武村雅之ほか『神奈川県における関東大震災の慰霊碑・記念碑・遺構』(その1,2,3)

大磯町郷土資料館編『むかしがたりー古老が語る大磯の災害ー』1993年

添田喜一『中丸の歴史を語る』2000年

岡本多喜子「貧困者にとっての関東大震災における罹災者救済策」(『明治学院大学社会学・社会福祉学研究』147号、2017年)

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