100年前の大磯 関東大震災特集4 国府地区の被害
現在の大磯町国府地区は、関東大震災が起こった100年前は、国府村という、大磯町とは別の村でした。そのため、助役日誌からは、ほとんど現在の国府地区の被害状況がわかりません。今回は、国府地区の被害状況をまとめます。
国府村全体の被害状況
次の表は、国府村も含めた大磯町周辺の被害状況をまとめたものです。『神奈川県震災誌』を参照しました。
町村名 | 全潰 | 半潰 | 破損 | 完全 | 全焼 | 半焼 | 全流 | 半流 | 死亡 | 負傷 | 行方不明 |
大磯町 | 245 | 205 | 1,199 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 33 | 157 | 0 |
国府村 | 407 | 168 | 106 | 16 | 0 | 0 | 0 | 0 | 25 | 27 | 1 |
吾妻町 | 400 | 462 | 349 | 8 | 6 | 0 | 0 | 0 | 27 | 42 | 0 |
平塚町 | 1,387 | 911 | 527 | 52 | 6 | 0 | 0 | 0 | 275 | 45 | 0 |
秦野町 | 351 | 1,457 | - | - | 232 | 5 | - | - | 21 | 27 | 1 |
国府村の全潰は407戸と大磯町の245戸と比較してだいぶ多いです。死者数は25名で、大磯町の33名(列車転覆による死者数8名を含む)とほぼ同数です。火災の被害は、大磯町と同じく無し。平塚町・秦野町等は火災が発生していました。国府村は、全潰・半潰・破損戸数が多い割には、負傷者が少なかったようです。
注:「全潰」「半潰」は、現在の「全壊」「半壊」とほぼ同じ意味です。ここでは当時の資料に基づき、「全潰」「半潰」の表記にしました。
国府小学校の被害
国府小学校は大正8年(1919)に落成した新校舎で、全壊はしませんでしたが、瓦が落ち、柱などが傾きました。そのため、卒業式に間に合うように、屋根に杉皮を貼るなど、応急処置がなされました。この屋根は、翌大正13年(1924)に亜鉛葺(トタン葺き)に修復されました。この当時の校舎は、昭和37年(1962)に新校舎が完成されるまで使用されました。
震災当時の学校の様子は、教師が記した『震災記録』に記されています。この記録には、地震発生当時の職員室の様子が記されていて、地震の揺れの激しさで逃げ惑う訓導(教職員)や、柱が傾き、大きく動いた様子が生々しく報告されています(『大磯町史』7、p.437)。
黒岩地区の被害
黒岩地区には、関東大震災を伝える記録が残されています(『大磯町史』3、p.628~630)。この記録には、地震発生時の様子と地域の被災者名や被害数の記載があります。それによると、この地区では、全壊戸数が27戸(正泉寺と池之神社を含む)、半壊10戸、死者4名、負傷者2名の被害がありました。
この記録には、被災者の氏名の後に、天皇からの下賜金に関する記述があります。この下賜金について調べましたところ、死者・行方不明者へは16円、負傷者へは4円、全焼・全流失は一世帯あたり12円、全壊は一世帯あたり8円、半壊・半焼・半流失は一世帯あたり4円が下賜されました。2年以内に町村へ申請することによって、下賜金を受け取ることができました。
神社や寺院の被害
黒岩地区では、正泉寺や池之神社が全壊しましたが、国府地区全体でも、神社や寺院の被害が見られます。六所神社では鳥居が倒壊し、現在の鳥居の前に建てられていた鳥居には、大正12年9月の震災で倒壊し、大正15年(1926)6月に修理して復旧したことが刻まれていました。
また、現在の二宮町との境にある蓮花院は、関東大震災で倒壊し、昭和11年(1936)10月27日に修築されたことを伝える碑文が残されていました(現存せず)。
また、寺坂の八坂神社の鳥居も関東大震災で倒壊したと記されています。
次回は、11月14日(火曜日)に更新します。国府地区で関東大震災を体験した、体験者の証言をご紹介します。
参考
『大磯町史』3
『大磯町史』7
『大磯文化財調査報告書』第36集
『大磯文化財調査報告書』第40集
神奈川県編『神奈川県震災誌』1927年
名古屋大学減災連携研究センター武村雅之ほか『神奈川県における関東大震災の慰霊碑・記念碑・遺構』(その1,2,3)
大磯町郷土資料館編『むかしがたりー古老が語る大磯の災害ー』1993年
添田喜一『中丸の歴史を語る』2000年
岡本多喜子「貧困者にとっての関東大震災における罹災者救済策」(『明治学院大学社会学・社会福祉学研究』147号、2017年)
更新日:2023年11月10日