大正12年2月24日

更新日:2023年02月24日

2月24日(土曜日)、午前9時出勤。

午前8時頃より雪が降り始めたが、午後には晴天となる。

戸籍謄抄本に忙殺される。

午前10時半頃、吾妻村長杉崎源蔵氏と平塚町長加藤銀蔵氏が来場。藤田町長といろいろ談話した。用件は不明。午後0時半頃、藤田町長は杉崎・加藤の両氏と共に税務署へ出張する。

午後2時半頃、大日本物価調節会幹事の長谷乾次郎氏が来場し、小田原電灯の値下げ運動について大磯町の意向を尋ね、同意を得たいと言われた。藤田町長が不在であったため、後日町長に面談することとなった。午後4時頃町長が戻ったため、すぐに電灯値下げ運動の件を報告した。

午後4時20分退庁。

解説

1月下旬から大雪・吹雪の記述が増えています。この日も雪模様、寒い冬だったことがわかります。

大日本物価調節会については、国の組織なのか、民間なのか詳細はわかりません。全体の物価のバランスをとるための団体と思われます。現在では不動産関係の建物物価調査会は組織されており、世の中の景気の変動がある程度推測できます。

コラム「当時の電気事情」

小田原電灯の値下げ運動に関して、少し電気の歴史をたどってみましょう。

日本で初めて電灯が点灯したのは、1882年(明治15)、東京銀座にアーク灯が灯されました。当時の電灯は、15分灯れば良い程度、それでも初めて目にする電灯に市民は歓声を上げたに違いありません。その後、初めての電気事業者として東京電灯会社(現・東京電力の前身)の設立、工場での自家用発電や水力発電を開発するなど電気事業は発展していきます。第一次世界大戦時は、日本では軍需産業で好景気の時、電気の需要が高まり民間の電力会社(当時電燈会社・電灯会社ともいう)が次々と設立されていきます。しかし戦争が終わると景気が後退、電力過剰となり、電力会社の生き残りをかけた電力戦が始まります。のちに小田原に家を持った松永安左エ門(1875~1971)は、大手電力会社東邦電力を率い、全国の電力会社の再編を行い「電力王」と呼ばれました。

昭和になると、戦争激化に伴い電気事業を国家管理下に置く政策が取られ、東邦電力は解散(1942年)しました。松永は引退し小田原板橋に移り住み、小田原三茶人の1人として余生を過ごすことになります。

当時の小田原の電気事情については、箱根登山鉄道の歴史が関係します。

明治になると国は鉄道の建設に着手し、東海道本線が開通しました。東海道線は、箱根山の工事が難工事になるため、当初は小田原を通らず、国府津から御殿場を回って沼津へ抜けるルートでした。そこで、小田原の有力者たちは、国府津駅から小田原を経由して箱根湯本にいたる馬車鉄道の敷設を申請し、1888年(明治21)小田原馬車鉄道が設立されました。日本では3番目となる馬車鉄道の営業開始です。

運営が軌道に乗るよう応援したのが、小田原に静養のため別荘を持っていた伊藤博文です(この時はすでに大磯を本邸として転居していました)。しかし、馬の病気や飼料代、人件費等で経営的に苦しい状態が続きました。当時の田島社長は、第3回内国勧業博覧会でアメリカから輸入した電車の展示運転を見て、「次の乗り物は電車」と確信しました。

問題は電気をどうするかです。専門家の実地測量により「箱根の地形は水力電気が得やすく、電気鉄道としては好条件」、さらに電車の運行ばかりでなく電力供給事業まで行えることが可能であるとの結論を得ました。1896年(明治29)、小田原馬車鉄道は社名を小田原電気鉄道と変更し、1900年(明治33)に湯本茶屋発電所が完成、全線電化となりました。これは日本では4番目の電気鉄道で、馬車鉄道からの電化は日本で初めてでした。

1928年(昭和3)、小田原電気鉄道が日本電力と合併し日本電力小田原営業所となり、鉄道部門の箱根登山鉄道は分離されました。

助役の日誌に書かれた当時は合併する前であり、湯本発電所から供給される電気を小田原電灯と呼んでいたのではないかと思います。関東大震災前の大正12年頃は、東京ではほとんどの家庭で電灯が普及していたようです。しかし家庭での電灯の電気料金は今の金額で月3万以上、かなりの高額でした。そのため、値下げ運動が起こったのではないでしょうか。

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