大正11年12月7日
12月7日(木曜日)、午前8時55分出勤。午前8時30分出勤。
戸籍謄抄本事務に従事。
午後から、物価調節・節約宣伝のため、町会議員・区長を役場庁舎へ召集、藤田町長より訓示があった。午後5時過ぎ散会、6時頃退庁。
隔離舎敷地貸借の件について、地主と町長との間で契約済となった。
解説
この日はなぜか出勤時間が2つ書かれています。理由はわかりません。
100年前の当時、日本経済は、1915年(大正4年)から始まった第一次世界大戦後の好景気の後、1920年(大正9年)3月に起こった恐慌によって、大きな変化に見舞われていました。
当時の日本は、大戦中に軍需品の輸出貿易を増加させたことによって国内工業・重工業が発展し、好景気になりましたが、銀行資本を集約した財閥が社会経済を独占していきました。それに伴い、物価は高騰。成金になった者がいた一方で、賃金や俸給が上がらない生活困窮者が増え、社会に分断が生まれていきます。米騒動が起き、工業の発展によって増えた労働者は労働組合を作り、農村部では小作争議が増加しました。
日誌の記述からは、当時、町の経済を支えていた商家の主人や地域の有力者でもあった町会議員・区長等を集め、物価上昇を抑え、節約を促そうとした町長の姿勢が垣間見えます。
更新日:2022年12月07日