大正10年3月3日

更新日:2021年03月03日

3月3日(木曜日)、午前8時出勤。

午前10時、高来神社において皇太子殿下御渡欧のための奉安式があり、藤田町長が参加した。町長は、午後0時に役場に来られ、すぐに学務委員会に参加された。

中郡役所へ、役場書記の渡辺定吉に対して、多年精勤表彰をするよう履歴書を添えて願い出た。今年の地方改良会において、表彰されるようにするため提出した。

午後から、渡辺書記は私用のため早退した。

戸田技術員が、小生の子豚に血統書と耳票を付けるため出張した。

午後4時10分退庁。

解説

この日、当時の皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)は、6か月間に及ぶヨーロッパ各国歴訪の旅に出発しました。現在より多くの危険が伴い、すでに父大正天皇の健康が憂慮される状態で、反対意見も多かった皇太子の外遊。最終的には大正天皇の裁可で決定され、一転して外遊の平安を祈る儀式がいたる所で行われました。

また、この日は渡辺書記に対しての表彰を中郡役所へ願い出ていますが、「地方改良会」で行われる表彰だったようです。「地方改良会」とは、当時、全国的に展開されていた「地方改良運動」に基づき定期的に開かれていたもので、大磯町に関係するところでは、「神奈川県地方改良会・中郡支部総会」のことと思われます。

1904年(明治37)2月から翌1905年9月まで続いた日露戦争が勝利に終わり、日本は国際的に西欧諸国と肩を並べる存在になりました。しかしその一方で、多くの犠牲者を生み、戦費のための増税に苦しめられたのにもかかわらず、ロシアからの賠償金が支払われなかったため(ポーツマス条約)、抗議集会や暴動、焼き討ち事件が起こるなど、社会不安が増大しました。こうした国民の不満を鎮めるため、1908年(明治41)10月14日、明治天皇は「戊申詔書」を発布し、「西欧列強諸国と対等に緊密な関係を築いて国を発展させるためには、国民は勤勉倹約に励み、一致団結する必要がある」と説きました。これを受けて、特に疲弊していた地方社会の改善・町村の財政再建を目指し、内務省主導で「地方改良事業講習会」が全国で展開されるようになり、「地方改良運動」と呼ばれました。

大磯でも、翌1909年(明治42)2月に町内有志によって「戊申会」という組織が生まれています。発足時の会長は中川隣之輔、会員数は250余名でした(『大磯町史』7、p.297)。さらに、翌1910年(明治43)9月には、正式に「神奈川県地方改良会・会員募集」を行い、発会賛同者の名簿の中に小見忠滋の名前も見えます(『神奈川県史』資料編11近代現代(1)政治・行政1、p.521資料番号217「神奈川県地方改良会中郡支部関係書類」)。

この運動は、破綻に瀕した町村財政の改善と共に、優良吏員の養成や国民に対しての教化策があり、地方改良会の会員には、役場吏員のほか、学校職員、神官や僧侶も含まれていました。そのため、精勤表彰もこのような場で行うのが良いとされていたのでしょう。

最後に記された「子豚の血統書」。小見助役の家は農家で、日誌からはキュウリやミカンなどを栽培していたことがわかっていますが、養豚もしていたようです。

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