大正9年10月5日

更新日:2020年10月05日

10月5日(火曜日)、 午前7時40分出勤。

本日より渡辺主任書記と中西調査係と一緒に、国勢調査申告書の検査をする。

相変わらず戸籍謄抄本に忙殺。

尼港殉難者の忠魂記念碑を建設するため、関係者から寄付金募集の案内があった。各区長へ募集を依頼した。

午後4時退庁。

解説

今日も引き続き、国勢調査申告書の検査です。4月28日に国勢調査係員となった、渡辺書記と中西巡視と一緒に作業を進めます。ちなみに、小見助役は、国勢調査の主任です。

記念碑を建設する尼港(にこう)殉難者とは、この年(1920年)の3月から5月にかけて、ロシアのアムール川河口にある町、ニコラエフスク(尼港)で発生した大規模な住民虐殺事件で犠牲になった人々のことを指しています。

当時のニコラエフスクは、漁業や毛皮の交易などが盛んで、ロシア人ばかりではなく、多くのユダヤ人や日本人が移住していました。金融・商業が発展し、人口は約12,000人にまで増加。漁業を中心とした交易の町として、繁栄を見せていました。

しかし、1917年にロシア革命が起きて内乱が勃発すると、赤軍パルチザンが周辺地域に進駐を始めて治安が悪化します。そして、1920年2月、赤軍パルチザンは、孤立状態となった町を襲撃して占領し、その後の2か月で女性や子どもも含め、住民の約半数にあたる6,000人以上が虐殺されました。建築物は破壊され、町は廃墟となりました。

日本人の犠牲者は、シベリア出兵で駐留し、町を防御していた日本軍守備隊の兵士をはじめ、日本領事と館員、その家族、居留していた民間人の総勢731人にのぼり、ほぼ皆殺しだったと言われています。国際的な批判は言うに及ばず、国内でも事件の全容が明らかになるにつれ、在留邦人を見殺しにしたと批判が高まり、遺族・婦人団体・在郷軍人会などが中心となって、慰霊や法要が各地で行われました。小見助役が受けた寄付金募集の話も、このような社会情勢を反映したものだと考えられます。

今では時の流れと共に忘れ去られてしまった感のある事件ですが、殉難碑は、犠牲となった居留民間人の主な出身地である熊本県天草市、守備隊の本拠地であった茨城県水戸市、帰国した遺灰が安置された北海道小樽市に建立され、供養が続けられています。

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