ウェブ講座 吉田茂の手紙を読む <その9>

更新日:2022年02月04日

大磯町郷土資料館(旧吉田茂邸)で所蔵している吉田茂の手紙をご紹介する企画、ウェブ講座「吉田茂の手紙を読む」の第9回目です。毎月1回、全10回の連載を予定しています。

第9回目は、昭和29年12月12日付で書かれた谷口直枝子宛吉田茂の手紙を読んでいきます。
 ※谷口直枝子については、「ウェブ講座 吉田茂の手紙を読む<ご案内>」をご覧ください。

記事の構成は以下の通り。

【1】釈文(手紙に書いている文字を起こしたもの)
【2】書き下し文(釈文の読み方)
【3】現代語訳
【4】副詞について
【5】内容解説

また、下記の印刷用のテキストをご活用ください。

吉田茂の手紙を読む<第9回印刷用テキスト>(PDFファイル:941.4KB)

 

昭和29年12月12日付 谷口直枝子宛 吉田茂書簡

【1】釈文

拝復 御書難有拝読仕候、先以而御機嫌ニ被為渡大慶至極ニ奉存候、小生当分塵外ニ兎の一ねむりの態ニ御座候、自ら別天地又大慶至極ニ候、其内御東上之砌御尋可被下候、先ハ御返しまで、乍末筆折角御身御大事ニと奉存上候  敬具

          吉田 茂

谷口御後室様

      御前

 

【2】書き下し文

拝復 御書有(あ)り難(がた)く拝読仕(つかまつ)り候(そうろう)、先(ま)ず以(もつ)て御機嫌に渡せられ大慶至極に存じ奉(たてまつ)り候、小生当分塵外に兎の一ねむりの態(てい)に御座候(ござそうろう)、自(みずか)ら別天地又(また)大慶至極に候、其(そ)の内御東上之砌(みぎり)御尋下さるべく候、先ずは御返しまで、末筆乍(なが)ら折角御身御大事にと存じ上げ奉り候 敬具

             吉田 茂

谷口御後室様

       御前

 

【3】現代語訳

拝復 お手紙ありがたく拝読いたしました。何はともあれご機嫌よろしく大慶至極に思います。私は当分塵外(俗世間のわずらわしさのないところ)で兎の一ねむりの態でございます。みずから別天地にて大慶至極でございます。その内ご上京の折はこちらへお尋ねください。まずはお返しまで、末筆ながら十分に気をつけてお身体お大事になさってください。 敬具

          吉田 茂

谷口御後室様

       御前

 

【4】副詞について

副詞とは、用言や体言などを修飾する言葉です。古文書の表現には、現在ではあまり使用されない副詞も多くありますが、ここでは吉田の書簡に頻出する語句に限ってご紹介します。

先以而(まずもって) …2行目

「先以而(まずもって)」は、「何はともあれ」「第一に」という意味の副詞です。
「…以」という副詞はほかに「今以(いまもって)」「弥以(いよいよもって)」などのバリエーションがあり、通常は「以」と書いて「もって」と読みますが、吉田は「て」の送り仮名をつけています。また、この「て」も、吉田は「而」と表記することがしばしばあります。
 ※ほかに「…而」とつく熟語は、印刷用のテキストにて紹介しています。

又(また)…6行目

副詞としての「又(また)」は、「また」「さらに」と追加・並列の意味の副詞です。接続詞としても使われます。古文書では、「又」以外に「亦」の漢字でも登場しますが、吉田はもっぱら「又」と書きます。

愈々(いよいよ)

「愈々(いよいよ)」は、「より一層」「とうとう、ついに」などの意味の副詞です。

甚た(はなはだ)

「甚た(はなはだ)」は、「非常に」「大層」の意味の副詞です。

【5】内容解説

吉田政権の終焉

第五次吉田内閣総辞職の際、「では、罷(や)めて、大磯でゆっくり本でも読むか」とつぶやいた吉田茂。今回ご紹介するのは、総辞職直後の昭和29年12月12日付で書かれた手紙です。

文中で吉田は「小生当分塵外に兎の一ねむりの態に御座候、自ら別天地又大慶至極に候」と述べています。「塵外(じんがい)」とは、「俗世の煩わしさをはなれた所」という意味で、政界を離れ、大磯に隠棲した吉田の状況を指していると考えられます(ただし、吉田は総理大臣を辞めたものの、昭和38年まで衆議院議員は続けています)。

また、俗世を離れたところでウサギのひと眠りとは、ウサギとカメの童話になぞらえた例えでしょうか。ご存じのとおり、童話では、ウサギとカメの競争で、先行していたウサギが寝ている間にカメが勝つというストーリーで、油断をしていると思わぬ失敗をしてしまうという教訓が込められています。吉田の心境もそれに近いものがあったのでしょうか。

吉田自身は最後まで政権を維持する意志を持っていましたが、すでに周囲の人々は必ずしも吉田の考えと同じではありませんでした。

吉田はもともと外務省に長年勤めた外交官であり、戦前は政治に直接携わったことはありませんでした。首相就任の際も、こうした事情から家族からは大反対されました。特に、岳父の牧野伸顕と娘の麻生和子はその急先鋒で、牧野は「吉田は外国のことは知っているが、内政のことは知らない」と言い、吉田の首相就任には強固に反対しました。しかしながら、吉田は連合軍の占領下において、その外交手腕を発揮し、様々な改革をGHQとの交渉のもと進めていきました。結果的に、政治手腕もさることながら、吉田の外交官として経歴が役に立ったといえます。

しかし、サンフランシスコ講和条約締結前後から状況が一変していきます。前回もご紹介したとおり、鳩山一郎ら戦前の政界の中心人物らが公職追放を解かれて復帰し、国内における政治闘争が本格化。こうしたなか、その出自からして政党政治に馴染みのなかった吉田は、窮地に立たされていくことになりました。自由党の分裂、バカヤロー解散、造船疑獄など吉田の求心力低下を示す出来事とともに退陣の声も高まり、結果として昭和29年12月7日に第5次吉田内閣は総辞職を余儀なくされました。

大磯詣で

しかしながら、大磯に隠棲したあとも、吉田のもとを訪れる政治家はあとを絶ちませんでした。鳩山一郎、岸信介のあと総理大臣に就任した池田勇人と佐藤栄作は、いずれも吉田学校の一員といわれた吉田の側近で、彼らもしばしば総理大臣時代に大磯を訪れました。特に佐藤栄作は自身の別荘を鎌倉に持ち、週末は大磯に足しげく通ったことが佐藤の日記に記されています。

 

参考文献:原彬久『吉田茂-尊皇の政治家』岩波新書、平成17年
       麻生和子『父吉田茂』新潮文庫、平成24年(原本は、平成5年、光文社より発行)
       武見太郎『戦前戦中戦後』講談社、昭和57年
       佐藤栄作『佐藤栄作日記』全5巻、朝日新聞社、平成9~11年

 

次回予告

次回は、最終回で3月2日(水曜日)更新予定です。
 

この記事に関するお問い合わせ先

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