ウェブ講座 吉田茂の手紙を読む <その8>

更新日:2022年01月06日

大磯町郷土資料館(旧吉田茂邸)で所蔵している吉田茂の手紙をご紹介する企画、ウェブ講座「吉田茂の手紙を読む」の第8回目です。毎月1回、全10回の連載を予定しています。

年も明け、いよいよ本連載も残すところあと3回となりました。第8回目は、昭和29年9月22日付で書かれた谷口直枝子宛吉田茂の手紙を読んでいきます。
 ※谷口直枝子については、「ウェブ講座 吉田茂の手紙を読む<ご案内>」をご覧ください。

記事の構成は以下の通り。

【1】釈文(手紙に書いている文字を起こしたもの)
【2】書き下し文(釈文の読み方)
【3】現代語訳
【4】接頭語について
【5】内容解説

また、下記の印刷用のテキストをご活用ください。

吉田茂の手紙を読む<第8回印刷用テキスト>(PDFファイル:1010.9KB)

 

昭和29年9月22日付 谷口直枝子宛 吉田茂書簡

【1】釈文

拝復 過日折角の御出のところ御もてなし何んの風情も無之御免可被下候、大風一過後の晴天を思へハ、嵐も一如の風情有之、負け惜しみ御笑可被下候、愈々嵐をあとに出懸候、何かの御役ニ立度候、之れのみ懸命ニ御座候、折角御身御大事ニと奉存上候

          茂

   九月廿二日

谷口御後室様

      御前

 

【2】書き下し文

拝復 過日折角の御出(おい)でのところ御もてなし何(な)んの風情も之(こ)れ無(な)く、御免下さるべく候(そうろう)、大風一過後の晴天を思えば、嵐も一如の風情之れ有(あ)り、負け惜しみ御笑下さるべく候、愈々(いよいよ)嵐をあとに出懸(でか)け候、何かの御役に立ちたく候、之れのみ懸命に御座候(ござそうろう)、折角御身御大事にと存(ぞん)じ奉(たてまつ)り上(あ)げ候

          茂

   九月廿二日

谷口御後室様

        御前

 

【3】現代語訳

拝復 過日は折角お出でのところ、おもてなしが何の風情もなく、お許しください。大風一過のあとの晴天を思えば、嵐も同じような風情があります。負け惜しみをお笑いください。いよいよ嵐をあとに出かけます。何かのお役に立ちたいです。これのみ必死に頑張ります。十分に気をつけてお身体お大事になさってください。

         茂

   九月二十二日

谷口御後室様

       御前

 

 

【4】接頭語について

今回ご紹介する接頭語は、いずれも吉田の手紙ではよく出てくる文字です。頻出する文字だけあってかなり崩れているものも多く、文脈や書き手の筆跡をあらかじめ踏まえておかないと、判読が困難なこともしばしばあります。

接頭語は語調を整えたり、あるいは後に続く言葉を強調したりする意味合いがあります。「御」などは今でも「ご」「お」「おん」などの読み方で接頭語としてよく使われますが、「相(あい)」「罷(まかり)」(※罷は厳密には接頭語ではありませんが、接頭語のような役割を果たす場合があります)などは現在ではほとんど使われないため、古文書特有の表現として覚えておく必要があります。

御(ご、お、おん)…尊敬や丁寧の意を表す。頻出は「御座候(ござそうろう)」など

相(あい)…語調を整える。頻出は「相成(あいなり)」など

罷(まかり)…動詞に付いて丁重や強調の意味を表す。頻出は「罷在(まかりあり)」「罷出(まかりいで)」など

凡例
【5】内容解説

欧米への外遊

今回の手紙は、第5次吉田内閣時に国内の政局が不安定になっていくなか、吉田茂が外遊に旅立つ直前に谷口直枝子に送ったものです。吉田の外遊は、昭和29(1954)年9月26日から11月17日の約2か月間に及ぶもので、アメリカ、カナダ、フランス、西ドイツ、イタリア、イギリスと欧米諸国を訪問しました。吉田は、文中で「大風一過後の晴天を思へハ、嵐も一如の風情有之、負け惜しみ御笑可被下候、愈々嵐をあとに出懸候」と国内の政情を「嵐」に例えています。吉田の外遊前後は、吉田の政治家としてのキャリアのなかで最も多難な時期だったといえます。

鳩山一郎と吉田茂

そもそも、政局が不安定になった一因は、吉田茂が第1次吉田内閣を組閣した昭和21年までさかのぼります。この時、鳩山一郎率いる日本自由党が総選挙で第一党となり、総裁だった鳩山が、順当にいけば内閣総理大臣になるはずでした。しかし、突如GHQから公職追放を受けた鳩山は、首相になる道を断たれます。そこで、鳩山のかわりとして、鳩山からの依頼を受け、内閣総理大臣に就任したのが吉田でした。鳩山と吉田は、鳩山が復帰したあかつきには政権を委譲するという約束を交わします。これが、のちのちまでの火種となりました。

一時は公職を追われた鳩山ですが、昭和26年、サンフランシスコ講和条約の直前に追放解除となり、鳩山を支持する人々とともに政界に復帰します。これにより、自由党内には、吉田を支持する派閥と鳩山を支持する派閥とに大きく分裂していくことになります。

すでに、反吉田派による新党結成の動きは、吉田の外遊前からありましたが、外遊中も、反吉田派の岸信介、石橋湛山らが自由党を除名となり、吉田帰国後の11月24日に、自由党の反吉田派と改進党が合流し、日本民主党を結成しました(総裁:鳩山一郎、副総裁:重光葵)。そして、12月6日には、日本民主党と左右両派の社会党が吉田内閣に対し、内閣不信任決議案を提出。翌日、吉田内閣は総辞職に追い込まれ、長期にわたる吉田政権に終止符が打たれることになりました。吉田はこのとき、側近に「では罷(や)めて、大磯でゆっくり本でも読むか」と呟いたといわれています。一方の鳩山は、その後政権の座に就き、昭和30年には日本民主党と自由党との保守合同を実現し、五十五年体制の幕を開けました。

 

参考文献:吉田茂『回想十年 上』中央公論新社、1998
       ※1957年発行の新潮社版を底本としている。

 

次回予告

次回は、2月2日(水曜日)更新予定です。
首相退任直後の吉田の心情が綴られた手紙をご紹介します。

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