ウェブ講座 吉田茂の手紙を読む <その7>

更新日:2021年12月01日

大磯町郷土資料館(旧吉田茂邸)で所蔵している吉田茂の手紙をご紹介する企画、ウェブ講座「吉田茂の手紙を読む」の第7回目です。毎月1回、全10回の連載を予定しています。

第7回目は、昭和29年9月7日付で書かれた谷口直枝子宛吉田茂の手紙を読んでいきます。
 ※谷口直枝子については、「ウェブ講座 吉田茂の手紙を読む<ご案内>」をご覧ください。

記事の構成は以下の通り。

【1】釈文(手紙に書いている文字を起こしたもの)
【2】書き下し文(釈文の読み方)
【3】現代語訳
【4】吉田茂特有の表現について
【5】内容解説

また、下記の印刷用のテキストをご活用ください。

吉田茂の手紙を読む<第7回印刷用テキスト>(PDFファイル:916.2KB)

 

昭和29年9月7日付 谷口直枝子宛 吉田茂書簡

昭和29年9月7日付谷口直枝子宛吉田茂書簡1
昭和29年9月7日付谷口直枝子宛吉田茂書簡2
昭和29年9月7日付谷口直枝子宛吉田茂書簡3
【1】釈文

拝啓 暑さにも拘ハらす御機嫌に被為入奉大慶候、此地ニ参候処今年ハ湿気多く神経痛も思ひの外ニ軽快ニ赴き不申、従て御不沙汰申上候、さりながら浮世はなれ之山間、世間のさわきも耳ニ入らす閑寂ニ消光罷在候、御放念可被下候、先ハ不取敢御不沙汰御詫迄如此候 頓首

      吉田 茂

谷口御後室様

      御前

 九月七日

 

【2】書き下し文

拝啓 暑さにも拘(かか)わらず御機嫌に入らせられ、大慶(たいけい)奉(たてまつ)り候(そうろう)、この地に参り候処(ところ)、今年は湿気多く神経痛も思いの外に軽快に赴き申さず、従って御不沙汰申し上げ候、さりながら浮世はなれの山間、世間のさわぎも耳に入らず、閑寂に消光罷(まか)り在(あ)り候、御放念下さるべく候、先(ま)ずは取(と)り敢(あ)えず御不沙汰御詫び迄(まで) かくの如(ごと)くに候 頓首

       吉田 茂

谷口御後室様

      御前

 九月七日

 

 

【3】現代語訳

拝復 暑さにも拘わらずご機嫌よろしく、お喜び申し上げます。この地に参りましたが、今年は湿気が多く神経痛も思いのほか軽快に向かわず、従ってご無沙汰申し上げました。けれど浮世をはなれての山あいは、世間の騒ぎも耳に入らず、ひっそり落ち着いて日々を過ごしております。どうぞご心配なく。まずはとりあえずご無沙汰のお詫びまで、この通りです。 頓首

      吉田 茂

谷口御後室様

      御前

 九月七日

 

【4】吉田茂特有の表現について

今回は、吉田茂特有の単語表現についてご紹介します。吉田は時に独自の漢字を使って単語を書いている場合があります。頻繁にでてくるこれらの特有の単語表現は、知らないと単語の意味が取れなかったり、ただの間違いだと思ってしまいますので、注意が必要です。

御不沙汰(ごぶさた)… 吉田の手紙では必ずといっていいほど頻出の語句ですが、通常は「御無沙汰」と「無」を使うところ、吉田は必ず「不」を使っています。

撰挙(せんきょ)…「選挙」の「選」が「撰」となっている場合があります。

自働車(じどうしゃ)…「自動車」の「動」が「働」となっています。

○○の義(~のぎ)…古文書で使用される「○○之(の)儀」という用法があります。意味は「○○のこと」となります。吉田はこれを「儀」ではなく、「義」と書いています。

このほか、過古(過去)干係(関係)干与(関与)記臆(記憶)才判(裁判)政事家(政治家)切角(折角)打解(打開)拝覆(拝復)無性(無精)ヨ算(予算)などがあります。

【5】内容解説

箱根小涌谷の別荘

吉田茂は昭和23年(1948)頃から毎年、夏には避暑で箱根小涌谷の三井別邸に滞在していました。手紙のなかで「此地ニ参候処」とでてくる「此地」とは、大磯のことではなく、箱根のことです。手紙の差出の住所も「箱根小涌谷 吉田茂」となっています。吉田の手紙を見ていると、その時々で滞在している場所が違うことがあります。とりわけ、総理大臣時代は、大磯の自宅には週末に帰る程度で、普段は目黒区にあった公邸(旧朝香宮邸、現在の東京都庭園美術館)に滞在していました。また、昭和22年から23年に下野していた時期には、杉並区にある近衛文麿の荻外荘に居住していたこともあります。
手紙では、箱根も思ったより湿気が多く、神経痛が思いのほかよくならない旨が記されています。その数か月前から吉田の手紙には、しばしば神経痛の記述があり、実際に吉田は神経痛の悪化で、国会を長期欠席していました。

「世間のさわきも耳ニ入らす」

手紙の後半には、「さりながら浮世はなれ之山間、世間のさわきも耳ニ入らす閑寂ニ消光罷在候」とあり、吉田が箱根の山中で静かに療養している様子が目に浮かびますが、実際には、造船疑獄や鳩山一郎らの離党と復党などの複雑な政治状況をはじめとして様々な問題を抱えており、とても手紙に書かれているように心穏やかに暮らすことはできなかったのではないかと推測されます。
例えば、この手紙の少し前の9月1日、吉田から当時の農林大臣であった保利茂に出された手紙には、「米作概況御話被下大ニ安堵仕候」(米作の概況をお話し下さり、大いに安堵しました。)と書かれています。もともと、戦後直後の食糧危機に、総理大臣として直面せざるをえなかった吉田は、当面の危機を乗り越えたあとも、国内の食糧増産と農政には非常に関心を抱いていました。前年の昭和28年(1953)は、西日本一帯の大水害と東北・北海道の冷害で、食料の緊急輸入が行われていた状況でした。続く29年も冷害が予想されていましたが、8月下旬に東北の天気が持ち直し、なんとか冷害にならずに済みそうだというということで、その報告を保利から受けた吉田がしたためたのが、上の保利宛の手紙です。吉田はこのとき、うれしさのあまり、保利にねぎらいの意味をこめて陶器の馬を贈っています。馬好きの吉田ならではの贈り物だといえるでしょう。
このように国内外における諸問題を抱えながらも、「世間の騒ぎも耳に入らず」と飄々とした様子の吉田の姿からは、娘であった麻生和子が「しめっぽい話とか、自分が解決できない話は一切しない。(中略)父のような性格の人は自分のぐちを絶対に人に話さない」(麻生和子「父のこと」、朝日新聞社編『吉田茂』収録)と回想したように、毅然とした一面を垣間見ることができます。

参考文献:財団法人吉田茂記念事業財団『吉田茂書翰』(中央公論新社、1994)
     朝日新聞社編『吉田茂』(1972)

次回予告

次回は、年明け1月6日(木曜日)更新予定です。

この記事に関するお問い合わせ先

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