【吉田茂資料紹介】吉田茂宛竹内綱書簡

更新日:2021年06月16日

大磯町郷土資料館が令和3年3月末に発行した『資料館資料19 吉田茂関連資料目録(一) 吉田家旧蔵資料』に収録されている資料を、順次ブログにてご紹介しています。

吉田茂と実父・竹内綱

吉田茂は、明治11年(1878)に、父・竹内綱と母・瀧子のもとに生まれました。茂が生まれる前、竹内は土佐挙兵のための武器あっせんの罪で、入獄していました。その際、竹内の妻を保護していたのが、のちの吉田茂の養父となる吉田健三です。竹内と吉田健三は生まれてくる子どもが男の子であれば、吉田家の養子とする旨を約束し、3歳のときに茂は吉田家の養子となりました。

竹内綱は土佐藩出身の自由民権運動家で、第1回衆議院議員選挙に当選し、板垣退助らとともに自由党を結成するなど、政治家として活躍した人物です。一方で、竹内は実業家としての顔ももち、たとえば、同郷の後藤象二郎とともに長崎県の高島炭鉱の経営に携わるなど、様々な事業を展開しました。

吉田が11歳のとき早逝した養父の健三にかわり、のちに吉田の後ろ盾となったのが、実父の竹内綱と竹内の長男・明太郎です。明太郎の日記には、吉田健三が経営していた醤油醸造業などの事業の整理や、吉田の進路、結婚のことなど、折に触れて吉田茂が竹内家に相談していたことが記されています(高知工業高等学校同窓会編『工業ハ富国ノ基-竹内綱と明太郎の伝記-』1997)。

安東領事時代の吉田茂

吉田茂(安東領事時代)

竹内綱

竹内綱(1839-1922)

吉田茂宛竹内綱書簡

さて、今回ご紹介するのは、吉田茂の実父・竹内綱から吉田宛に送られた書簡です。当館が所蔵している竹内の書簡は5通。大正3年(1914)から5年(1916)にかけて、吉田茂が中国の安東で領事をしていた頃に送られたものです。

吉田茂宛竹内綱書簡

大正4年(1915)12月30日付 吉田茂宛竹内綱書簡 封筒と本紙冒頭部分 本紙全長2260mm

 

吉田茂は、明治40年(1907)中国奉天総領事館の領事館補として外交官のスタートを切り、以降、中国北部の領事・総領事として、日本人居留民の保護や現地における情報収集などの業務に携わっていました。

大正4年(1915)12月30日付の書簡は、竹内の書簡のなかでもっともボリュームのあるもので、内容は、日中関係について書かれています。当時は第一次世界大戦が勃発し、世界情勢が大きく変動していた時期で、中国における列強の利害関係も刻一刻と変化していました。一方の中国も、辛亥革命と清朝の滅亡、中華民国の成立など、激動の時期を迎えていました。書簡からは、吉田が緊迫した状況下のなか、今後の日中関係をいかにすべきか思いを巡らせていたことがうかがえます。

書簡は、先行して吉田が竹内に送った書簡の内容に対し、逐次竹内が意見を述べる形をとっており、対中政策に対する竹内と吉田の意見の一致と相違がみてとれます。よく、吉田は実父・竹内綱、養父・吉田健三、岳父・牧野伸顕の三人の父から大きな影響を受けたといわれていますが、竹内と吉田の関係はまだまだわからない部分も多く、こうした資料は両者の関係を探る上でひとつの手がかりとなるものです。

今回ご紹介した資料については、大磯町郷土資料館発行『年報-令和元年度-』に資料紹介として、書簡の翻刻と内容の解説を掲載しています。ご興味のある方は、下記のPDFよりご覧ください。

【資料紹介】吉田茂宛竹内綱書簡(PDFファイル:1.4MB)

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