【4月1日オープン!】旧吉田茂邸内を一足先にご紹介!

更新日:2017年03月10日

開館まで一ヶ月を切った旧吉田茂邸。4月1日のオープンに先駆けて、邸内のようすをご紹介いたします。

今回ご紹介するのは、応接間である金の間や寝室として利用していた銀の間、ローズルームと呼ばれた食堂がある新館です。

新館とは?

昭和30年代、吉田茂は海外からの賓客を迎えるため、新館を増築することを決め、著名な建築家・吉田五十八に設計を依頼しました。
この新館は、近代数寄屋建築と呼ばれる建築様式をもちい、和と洋が融合された近代的な造りとなっています。

旧吉田茂邸 外観

 

 吉田茂は、この新館について次のように述べています。

「海外で親しく会談した相手方が日本を訪れると、よく私の宅を訪ねてくれる。ところが、私の家は誠に手狭で、そのような時に、泊まってもらいたいと挨拶するわけにいかない。(中略)昭和三十五年に、皇太子殿下の御訪問への答礼として、アメリカのアイゼンハワー大統領が来訪することになった。そこで大統領には是非私の家を訪ねてもらいたいし、訪ねてもらえれば泊まってもらいたいと思い、外人の宿泊に適当な増築を思いついた」(引用:吉田茂(2015)『大磯随想・世界と日本』中央公論社,256p)

この吉田茂の迎賓館構想は、自身が海外を訪ねた際に、訪問先の人々の私邸に宿泊した経験から思いついたものです。『大磯随想』では、ニューヨークのロックフェラー三世邸やロンドンのケズウィック邸、西ドイツのクルップ邸に宿泊した際の印象について記しています。

実際には、アイゼンハワー大統領の来日は中止となりましたが、その後、海外からの賓客を迎える迎賓館として利用されていました。

「海千山千」の景色/人々

このブログのタイトルにもなっている「海千山千」という言葉は、吉田茂が自らの居宅を称するときに使おうとした言葉です。

「新築の部屋は、母屋よりも地盤が一段と高くなっており、南は松林を通して相模湾を、西は遥か箱根の山々はもちろん、富士山を眺める景勝の地にある。お客のないことを幸いに、主人自らの起き伏しに使っているが、訪問客は一様に『海も山も眺められて結構な住まいだ』と、ほめてくれる。私はこれらの訪問客の感想に応えてこの館を『海千山千荘』と名づけようかと思っている」(引用:前掲書,257p)

吉田茂は、銀の間に隣接する金の間で、訪問客を迎えました。訪問客のいう「海も山も眺められて」というのは、この金の間からの景色を指しているものと考えられます。

実際に冬の空気の澄んだ日には、金の間から富士山を見ることができます。

金の間から見る富士山

吉田茂は、先の文章に続いて、このように記しています。

「訪問客は、この家の主人が「海千山千」だからこのように称するのだろうという。これに対して私は、わが家への来訪者はすべて「海千山千」の方々ばかりなので、それらの人々の迎賓館ゆえ、このように命名しようと思うのだと応酬するのが常である」(引用:同前)

このやり取りが誰との間に交わされたのか、確かめるすべはありません。ですが、吉田茂の語り方から推測すると「海千山千」に関する応酬は、「常」となるくらいには繰り返された問答だったのでしょう。

吉田茂の最期

吉田茂が最期を迎えた場所は、この「海千山千」の景色が一望できる銀の間でした。オープンに向けて、調度品であるベッドも展示されました。このベッドは吉田茂が亡くなった当時のものを再現しています。

銀の間

戦後日本の礎を築いた吉田茂。彼は、その最期を海千山千の眺望を持つ、この部屋で迎えました。吉田茂の最期について、三女・麻生和子は、次のように述べています。

「昭和四十二年の十月二十日は、とてもきれいに晴れた秋の日でした。しばらくまえから父は床についていましたが、その日は体調がよかったらしく、富士を見たいといいました。看護婦さんに手伝ってもらってベッドから椅子を移し、窓に寄せると、遠くにははっとするほど美しい富士山が見えました。『きれいだね、富士は』という父と、しばらくのあいだいっしょに富士山を眺めて過ごしました。その日、調子のよさそうな父を残して私が渋谷の家にもどる途中、父は息をひきとりました」(麻生和子(1993)『父 吉田茂』中央公論社,212p)

翌朝の大磯のようすは各紙に掲載されました。朝日新聞は、弔問に訪れた「海千山千」の人々について記録しています。

「午前六時半ごろから弔問の人の姿がぼつぼつ見え始め、中門前には報道陣の車がズラリと並ぶ。その中を午前八時半、上林山栄吉代議士が来たのをはじめ、河野謙三参院副議長、田中角栄代議士、岸信介元首相、藤山愛一郎氏、池田元首相未亡人満枝さんらが続く」(1967(昭和42)年10月21日『朝日新聞』)

「海千山千荘」のこれから

旧吉田茂邸は、焼失した建物を再建したものです。確かに多くのものが失われてしまいました。ですが、吉田茂が生きていた時も、いまも、「海千山千」の景観は変わりなく、私たちを楽しませてくれます。

吉田茂は、自宅を迎賓館として機能させようとしていたことは、先に書いたとおりです。その吉田茂の構想を思い出しながら、大磯町にお越しになる皆さまをお迎えできれば、と思います。

「海千山千」の邸宅・旧吉田茂邸への来館をお待ちしております。

次回は、今回紹介した新館より古く、吉田茂が内閣総理大臣だった時代に建てられた「応接間棟」についてお伝えします。次回更新日は、3月17日を予定しています。

※旧吉田茂邸のオープンは、2017(平成29)年4月1日です。 オープンまでは入邸することはできません。ただし、庭園と外観は、ご見学いただけます。

この記事に関するお問い合わせ先

教育委員会 教育部 生涯学習課 旧吉田茂邸(郷土資料館別館)
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