3-4 大戦下の暮らし

更新日:2021年11月02日

第一次世界大戦を皮切りとして想定されるようになった世界戦争は、国家が一丸となって戦う総力戦という考え方を前提とする戦争である。総力戦とは、実際に戦う兵士だけでなく、国民の生活すべて、そして、政治、経済、学問・教育のすべてを戦争に注力する戦い方である。

暮らしと政治の統制

1937年(昭和12年)7月から始まった日中戦争は長期化し、戦争が次第に国民の生活へ入り込んでいった。1938年(昭和13年)4月には、国民生活のすべてを戦争に向けて統制する、国家総動員法が制定される。この法律によって、政府は国民の経済・生活全般にわたる統制や動員の権限を持つことになった。

そして、1940年(昭和15年)1月には国府村で部落会が設置され、同年12月には当時の大磯町に30の町内会が設置され、その下に211の隣組がつくられた。これらの部落会・町内会の役割は、住民の連帯、保健衛生、物資の配給、警防などであったが、住民同士が相互を監視するような、息苦しい雰囲気も醸成された。国府村と大磯町で部落会や町内会が設置されたこの年の10月に大政翼賛会が結成され、政界も戦争に向けて整備された。

産業の統制

農業の統制は、初め流通に関するものであったが、次第に生産面での統制も進み、農産物全般が統制の対象となった。米穀類はもちろん、野菜類も統制され、1938年(昭和13年)12月に大磯町農会が主催となって開催された葱(ねぎ)販売統制協議会では、ネギの出荷時期から規格の統一、販売方法などが細かく決められている。戦時色がより濃くなると、甘藷(サツマイモ)が米穀類の代用品となった。

大磯の多くの人たちが携わっていた漁業も、漁業協同組合や水産会などの団体が、1938年(昭和13年)3月の水産業団体法の公布によって大磯町漁業会に統合されるなどの統制が進んだ。漁業に深刻な影響を与えたことは、物資不足である。漁船に必要な燃料油や、漁に必要な網の資材などが不足することによって、漁業生産は衰退の一途をたどった。また、漁師が徴兵され、漁船も軍需工業へ徴用されたことも、衰退の要因であった。

国家総動員法にもとづいて、1942年(昭和17年)には企業整備令が公布され、街場の商工業者や商店も転廃業を余儀なくされた。当時の大磯町でも、1943・44年(昭和18・19年)には、木炭商・酒味噌醤油商・鮮魚商・菓子商などを中心とした176店が転廃業に追い込まれた。

物資の不足

このように産業が統制されていくにあたり、物資不足は深刻化する。物資の不足は、1938年(昭和13年)3月頃から見られるようになり、この頃になると、愛国婦人会や国防婦人会によって廃品回収が行われるようになる。そして、1939年(昭和14年)頃になると、代用品の生産や使用が盛んになり、1940年(昭和15年)頃からは食糧や日用品の配給制が強化された。

つまり、日中戦争が長期化することによって、太平洋戦争が開戦する前から、人々は物資不足を感じるようになっていた。ただし、軍隊では太平洋戦争が始まる前は物資不足を感じることはなく、1939年(昭和14年)頃には士官学校でまんじゅう食い競争が行われていたという。物資不足に拍車がかかったのは、やはり太平洋戦争以降であり、そのような中で奢侈品(ぜいたく品)も規制されていった。

陶製のガスコンロ

陶製のガスコンロ

陶製の鏡餅

陶製の鏡餅

防衛食容器

防衛食容器

ガスコンロは鉄の代用として、鏡餅は食糧不足から餅の代用として、防衛食容器は缶詰の代用として使われた。防衛食容器の中身は、何が入っていたのか、はっきりしていない。現在も大磯町内から出土することがある。

防空

関東地方で最初の防空演習が行われた時期は、1933年(昭和8年)8月であった。日中戦争がまだ始まる前ではあったが、第一次世界大戦における空爆や、東京などの都市が焼失した関東大震災を目の当たりにして、日本でもすでに空襲に対する危機意識があった。1937年(昭和12年)4月には防空法が公布された。

1937年(昭和12年)9月15日と17日から19日には、1933年(昭和8年)8月の第1回関東防空演習に続いて、第2回関東防空演習が実施された。その後、1938年(昭和13年)には2回にわたって大防空演習が行われ、これらの演習は、大磯の城山(じょうやま)にあった三井家の別邸の記録「城山荘(じょうざんそう)日記」にも記されていることから、大磯でも演習が実施されていたことがわかる。

1940年(昭和15年)からは、隣組が防空演習に力を入れ始め、バケツリレーなどの消火訓練が行われた。そしてその5年後、1945年(昭和20年)以降は、大磯も空襲の本番を迎えることになった。

消火弾

消火弾

防火用石灰を入れる箱

防火用石灰を入れる箱

防空指導では、空襲の際、退避せず消火に努めることが推奨された。

消火弾は、火元に向けてビンごと投げ、ビンの中の液体状の消火剤によって消火する仕組みであった。大磯の東小磯の別荘にあったもの。

石灰を入れる箱は、大磯の山王町で使用されていた。

服装

物資の不足は、衣類にも影響を与えた。衣服の簡素化と国民精神の高揚を目的として、1940年(昭和15年)11月に国民服令が制定された。国民服は、男性の標準服として着用が奨励され、軍服にも転用できるとされ、さらには礼装としても使用できた。

国民服には上衣に帯形がある「甲号」と、帯形がない「乙号」の二種があり、勅令によって様式が示されていたが、形が様式に合っていれば材質は問わなかったようで、さまざまなタイプの国民服が残されている。

女性に対しては標準服は示されなかったが、戦時中は防空や勤労奉仕における利便性から、もんぺが多く着用されるようになった。戦況が悪化するにつれ、男性は鉄兜やゲートルを着用するようにもなった。

国民服

国民服

帯形のない乙号。写真のように、国民服儀礼章をはい用して、礼装として着用することができた。儀礼章の説明書によると、主部の中央に家紋を付けてもよいとあり、本資料は家紋とともに保管されていたことから、説明書に従って再現した。

テツカブト

鉄兜(テツカブト)

ゲートル

ゲートル

鉄兜は鉄帽とも、ゲートルは巻脚絆(まききゃはん)ともいう。いずれも、太平洋戦争の終わり頃には、兵士だけでなく民間の男性も着用した。ゲートルは、怪我をした際に、包帯の代わりにもなったという。

教育への影響

教科書

当時の教科書は国定であり、その内容はその時代の国家目的を反映するものとなっていた。国定教科書制度が1903年(明治36年)から導入され、以後、1945年(昭和20年)の終戦まで5回の改訂が行われた。特に、1933~1940年(昭和8~15年)の第4期、1941~1945年(昭和16~20年)の第5期は、日中戦争と太平洋戦争の時期にあり、当時の影響を色濃く受けている。

1933年の図画の教科書の表紙

教科書『尋常小学図画』第三学年用

1933年(昭和8年)

1933年の図画の教科書の戦争をテーマとした絵
1943年の図画の教科書の表紙

教科書『初等科図画』三 女子用

1943年(昭和18年)

1943年の図画の教科書の慰問袋をテーマとした絵

図画の教科書にも、戦争を題材としたものが含まれた。

終戦直前の学校

1941年(昭和16年)4月に国民学校令が施行され、現在の小学生および中学生の年齢にあたる子どもたちが就学した尋常・高等小学校は、国民学校初等科・高等科に改称された。国民学校令に定められた教育の目的には軍国主義的な一面が見られる一方、その教育課程の再編は、総合学習や科学教育を重視するなど、革新的なものでもあった。軍国主義の象徴として知られる絶対音感教育(敵機の爆音を聞き分ける能力を育てるために課程に加えられた)も、大磯町国民学校や国府村国民学校では、純粋な音感教育として、音楽教育の活性化につながっていたとされる。

とはいえ、戦況が悪化するにつれ、教育自体が学校でできなくなった。現在の神奈川県立大磯高等学校の前身にあたる大磯町立大磯高等女学校では、1943年(昭和18年)から工場への勤労動員が始まり、翌年8月には上級生全員が川崎の兵器工場へ勤労するため、1週間ずつ寄宿生活を送るようになった。

また、1945年(昭和20年)には、学校自体が兵器増産のための学校工場となった。ちなみに、大磯高等女学校は、大磯町国民学校と同じ校舎を使用していたが、国民学校には歩兵第402聯隊本部が置かれていたため、学校はもはや教育が行われる場ではなくなっていた。

国府村国民学校も、1945年(昭和20年)6月19日から兵舎として使用されるようになった。

そのような中、国民学校の児童生徒たちも勤労奉仕を行うようになり、国府村国民学校では、ドングリ拾いや干草集め、戦没者の墓参りなど、大磯町国民学校では、麦刈りや畑の除草、田植えなどを行った。また、当時は本土決戦に備えて軍が陣地を構築していたが、この陣地構築においても国民学校の生徒たちが動員された。

木銃

木銃 1942年(昭和17年)頃

当時の国民学校の高学年の男子が、軍事教練で使用した。

大洋丸の遭難

1942年(昭和17年)5月8日、宇品(うじな)港(広島県)からフィリピンに向かって航行していた旅客船「大洋丸」が、長崎県の男女群島でアメリカの潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没し、乗客、乗員合わせて817人が亡くなった。

大磯町郷土資料館では、この大洋丸に乗船して亡くなった方の資料を所蔵している。亡くなった方は三井物産株式会社の社員であり、南方の経済開発のためマニラへ赴任する予定であった。

三井物産では、7月22日に合同慰霊法要を行ったが、太平洋戦争が開戦してまだ5か月程度のこの頃は、大洋丸がアメリカの攻撃によって沈没したことは大きな衝撃であり、詳細な事実は秘密にされた。

戦後、1978年(昭和53年)頃に、生存者や遺族によって「大洋丸会」が結成され、遭難の記録を『大洋丸誌』としてまとめている。2018年(平成30年)には、沈没した船体が海底で発見された。

三井物産の合同慰霊法要の記念写真帳

三井物産の合同慰霊法要の記念写真帳

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