3-3 本土決戦準備

更新日:2021年11月02日

相模湾正面の対上陸防御

太平洋戦争の戦況が悪化していく中、1944年(昭和19年)頃から日本本土での決戦が想定されるようになり、その準備が進められるようになった。アメリカなどの連合軍が上陸すると想定された場所のひとつが関東地区であり、大磯も含まれる相模湾沿岸の地域であった。実際に、アメリカ軍は、1946年(昭和21年)3月1日に関東上陸作戦を予定していて、この作戦は、相模湾と千葉県の九十九里浜から馬のひづめ(コロネット)のように東京へ侵攻する作戦であったことから、コロネット作戦と呼ばれた。

日本軍は、アメリカ軍の関東上陸に備え、軍の編成を改め、相模湾沿岸の防衛として第53軍を編成、配備した。第53軍の隷下には、最終的に3個師団があり、そのうちのひとつである第140師団(護東部隊)の歩兵第402聯隊が主に大磯地区に配備された。

当初、歩兵第402聯隊の上級司令部は第140師団であったが、第3次兵備で第316師団が編成されると同師団の隷下となった。終戦間際には、第316師団歩兵第351聯隊の一部も鷹取山拠点に配備され始めた。

また、大磯丘陵には、独立重砲兵第36大隊や東京湾要塞第2砲兵隊、砲兵情報第5聯隊、横須賀海軍警備隊なども配備され、当時の大磯は決戦に備えて兵隊が各所に駐留するようになった。歩兵第402聯隊本部は、大磯町国民学校(現大磯小学校)だった。兵隊の主な滞在先は、学校のほか、三井別邸(城山荘)などの別荘、社寺、そして民家であった。総兵力でいえば大磯地区には、軽く4,000人を上回る規模で兵士の布陣があったと考えられる。詳しくはわからないが、歩兵第402聯隊聯隊長の鈴木薫二氏の話によると、同聯隊だけで終戦までに掘削した坑道の総延長は、1万mに及ぶという。

陣地壕の存在

大磯地区に配備された部隊は、1945年(昭和20年)4月頃から、決戦に備えて陣地を構築した。陣地の構築とは、丘陵部に設置された加農(カノン)砲・榴弾砲などの火砲を格納する壕や、侵攻するアメリカ軍の戦車を迎撃する対戦車壕、兵士が待機する壕などの洞窟陣地を掘削し、本土決戦準備を進めた。

鷹取山拠点の陣地壕

1945年(昭和20年)春頃から、第140師団歩兵第402聯隊第2大隊第2挺進中隊や同聯隊第4大隊によって構築され始めた。現在は、山の北側(平塚市)を中心に41か所の壕が確認されている。終戦直前の作戦変更によって、同聯隊同大隊等はこの地を去り、より沿岸に近い生沢方面へと配置転換、代わりに第316師団歩兵第351聯隊が布陣を始めた。しかし、全部隊が着任する前に終戦を迎えている。

この地域には、独立重砲兵第36大隊の24cm榴弾砲2門と、本土決戦のため満洲から呼び戻された野戦重砲兵第2聯隊の15cm榴弾砲6門が配備されたようである。24cm榴弾砲陣地については、歩兵第402聯隊第2大隊第2挺進中隊が構築に関与していたことがわかっている。15cm榴弾砲については、証言からその存在を確認することができているが、どこに配備されたのか特定はできていない。

その他、この場所には、機関銃によって射撃することを目的として構築された銃眼坑道が存在している。この坑道は、証言者と遺構の存在が一致した唯一のケースである。

寺坂地区の陣地壕

この地区には、当時の住民や兵士の証言から、第140師団歩兵第402聯隊第4大隊第6挺進中隊第2小隊約40人の兵士ほかが、王福寺の本堂や八坂神社、民家に滞在し、寺坂地区内に対戦車壕などの陣地壕を構築していたことがわかっている。滞在した兵隊は、地区内だけでなく鷹取山の陣地も構築していたようだ。

この地区は、1945年(昭和20年)7月16日の平塚空襲の際に焼夷弾が投下され、多数の被害を受けた。空襲を受けた要因として、滞在していた兵隊が酒盛りをしていたため、明かりがアメリカ軍に見つかったという話が伝わっている。また、この空襲の際に、砲弾を保管していた民家の倉庫に火が移り、爆発音をともに弾が周囲に飛んだという。

西小磯地区の陣地壕

本郷山を中心に、東西の谷戸沿いの丘陵部に、7か所の壕を確認できている。東側の谷戸、西小磯から平塚市万田へ抜ける道沿いには、血洗川の東側に対戦車壕が構築されたとの証言がある。これらの陣地壕は、相模湾から上陸したアメリカ軍が、既存の道路を使って北上することを想定し、それに対処するために構築されたと考えられる。しかし、構築途中で終戦を迎えているため、半端なつくりの壕が多い。

千畳敷・羽白山・王城山・高麗山

現在の大磯町東部に広がる丘陵部には、加農砲や榴弾砲を設置するための大規模な陣地壕がつくられた。羽白山・王城山・高麗山に構築された加農砲陣地は、証言などから砲兵情報第5聯隊が、千畳敷の28cm榴弾砲陣地は、東京湾要塞第2砲兵隊が構築したと考えられている。

羽白山洞窟式加農砲陣地は、地域住民に最もよく知られている陣地壕であり、戦争中につくられた壕というと大磯ではこの壕を思い浮かべる人が多い。陣地の構築中には、落盤による死亡事故が発生したとの証言があり、陣地の構築は危険と隣り合わせであった。

また千畳敷の丘陵には、歩兵第402聯隊が本部壕を掘削中であった。当時、大磯町国民学校に通っていた生徒が陣地構築の勤労動員で駆り出されている。陣地構築の勤労動員で、生徒たちは掘削によって出た廃土を運搬するのが主な仕事であったようだ。また、壕の中へ格納する砲弾の運搬を手伝った生徒もいる。

羽白山洞窟式加農砲陣地

羽白山洞窟式加農砲陣地 2016年(平成28年)撮影

縦深配備から汀線配備への作戦変更

日本軍は、本土決戦に備えて、当初、アメリカ軍が上陸してから迎え撃つ縦深配備をとっていたが、大本営は1945年(昭和20年)7月17日にアメリカ軍を汀(なぎさ)で迎え撃ち一歩も上陸させない汀線配備へと作戦変更を通達し、同年8月上旬に各部隊は水際へ配置を転換した。作戦変更の根拠としては、沖縄戦の結果、装備に勝るアメリカ軍を上陸させてしまうと正面からでは太刀打ちできないことを悟ったため、本土へ一歩も上陸させないという作戦をとった。

かつ、沖縄戦では、硫黄島の戦いと比べ、アメリカ軍による艦砲射撃の着弾密度が下がり、損害がないに等しかったことから、艦砲射撃は対象地域が広くなると着弾密度が下がることわかった。沖縄よりもさらに広大な日本本土では、より着弾密度が低くなると想定していた。

歩兵第402聯隊第1大隊が汀線配備のためにつくった陣地が、大磯町西小磯の海岸、八坂神社のすぐ東側にあったという。砂浜での陣地の構築は砂が崩れてくるため、5cm厚の板を砂に打ち込んで崩れないようにする必要があった。この陣地が構築されたと考えられる場所は、現在、住宅地になっており、その痕跡は残されていない。構築期間もわずか2週間程度だったため、掘り始めたらすぐに終戦を迎えた。

本土決戦準備の帰結

実際に、史実通りに終戦を迎えなければ、アメリカ軍の上陸は現実のものになったと考えられる。その主な上陸地点は、起伏が少なく、日本軍側の防御に適さない平塚・茅ヶ崎の正面だったということがわかっているが、近年の研究では、アメリカ軍の上陸前後に日本軍が相模川を氾濫させて水浸しにし、アメリカ軍の上陸を妨げる作戦があったことが明らかになっている。

結果として、アメリカ軍が大磯地区や鎌倉地区などに上陸せざるを得なかった可能性は、十分に考えられるだろう。防衛を指揮していた第53軍軍司令官も、この大磯で戦死することを想定していた。その時、大磯は戦場になる可能性があった。

陣地の構築には、軍隊だけでなく、国民学校の生徒も含めた市民が勤労動員として徴用された。従って、陣地の存在や本土決戦の可能性を感じている市民もいたが、詳しいことを知らされることはなかった。

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