3-2 空襲

更新日:2021年11月02日

日本が初めて空襲を受けたのは、1942年(昭和17年)4月18日であったが、これは、大磯ではちょうど高来(たかく)神社の祭礼(高麗寺祭(こうらいじまち))が行われた日であり、多くの町民は祭礼の記憶とともにアメリカ軍の戦闘機を見たという証言を語る。

その後、1945年(昭和20年)に入ると、大磯でもアメリカ軍の戦闘機が頻繁に見られるようになり、機銃による攻撃を一般市民が受けるようになった。

機銃掃射に関する証言

湘南平の方からグラマンが飛んできて、方向を変えて海の方から飛んできて、自宅付近から、自宅近くの線路に停止していた列車を狙って、機銃を撃った。列車には当たらず、線路の北側にいた5歳ぐらいの子どもの腕に貫通した。被害者は、腕が不自由になった。

(西小磯在住、当時12歳の方の証言)

大磯の空襲被害

記録に残る限りでは、1945年(昭和20年)7月16日の平塚空襲の被害が大きかった。平塚空襲における現在の大磯町域の被害は、次のとおりである。

地区名 焼失戸数 死者数 負傷者数
高麗 14 0 0
長者町 3 0 1
山王町 18 4 0
茶屋町 17 0 1
山手 4 0 0
寺坂 27 4 4

「大磯町国民学校 経営実施簿」(1945年)、国府村国民学校の学校日誌(『大磯町史』4所収)、『市民が探る平塚空襲』通史編1(平塚の空襲と戦災を記録する会編、2015年)を参照。

平塚空襲体験者の証言

ご主人が出征中で、4人の子どもさんがいられた。一番上の男の子は外に出ていて助かったが、赤ちゃんと2人は家の中にかたまってて、直撃で3人とも亡くなられたのだ。3人とも真っ黒になってしまわれて、本当にかわいそうだった。

(山王町在住、当時28歳、31歳の方の証言)
『市民が探る平塚空襲 証言編』(平塚の空襲と戦災を記録する会編)より

家族が入っている防空壕に、7人目に母が入り蓋をする寸前に親子焼夷弾が落ち、母の腰を貫通したのです。すぐ担架に乗せて医者へ行きましたが、医薬品がないとのことで包帯をしただけでそのまま帰されました。その後2時間くらいで母は亡くなりました。

(山王町在住、当時18歳の方の証言)
『市民が探る平塚空襲 証言編』(平塚の空襲と戦災を記録する会編)より

私たちは寺坂が空襲される少し前まで平塚の空襲を見ていました。そこへ、寺坂の下の方から先にバーと落ち始めたのですが、まさか自分の所へ来るとは思いもしませんでした。時間は12時頃、飛行機は平塚の方から来たと思います。身支度をして、いったん外へ出ましたが、母が貴重品を取りに家に戻り、後を追った弟が私の目の前で、入口で直撃を受けてしまいました。右肩から背中、お尻にかけて、肉が裂けたように割れました。骨には達しませんでしたが、屋根の藁の破片が傷口に突き刺さっていました。母は裏口から出て無事でした。弟はそれから4時間ほど生きていたでしょうか。近所の焼け残った家に弟を寝かせ、私が傍に付き添っていましたが、「熱い。熱い。」「お水が欲しい。」と言っていたのが、急に暴れるようにして亡くなったのです。この空襲で、寺坂の部落では20数軒が焼失しましたが、私の家も全焼し牛10頭が焼死しました。

(寺坂在住、当時10歳の方の証言)
『市民が探る平塚空襲 証言編』(平塚の空襲と戦災を記録する会編)より

関連資料

平塚空襲

1945年(昭和20年)7月16日深夜から17日未明にかけて、平塚市を中心に、当時の大磯町・国府村(現在の大磯町域)を含む周辺地域は、133機のB29爆撃機によって爆撃を受けた。平塚の空襲と戦災を記録する会の調査によると、死者は363人以上、神奈川県警察本部の調査による重軽傷者数は268人、罹災者35,336人、全焼8,263戸であった。

当時の平塚は軍需工場が集まる軍都であったが、市街地の焼失は57%であったことに対し、工場地域は23.4%であり、市街地の方が焼失率が高かったことがわかっている。アメリカ軍は、当初軍需工場などを標的とする空襲を行っていたが、中小都市を攻撃対象とするようになると、民間人が居住する地帯へ目標を定めるようになった。このことは、軍需産業を支えている家内工業を破壊し、厭戦意識を高める戦略であったという。

攻撃目標の爆撃中心点は、旧国道1号線沿いにある現在の「まちかど広場」(平塚市)付近であり、この中心点から半径1.2kmの円が描かれ、この円内を爆撃することになっていたが、一定の爆撃を行い、攻撃目標の延焼が確認されると、周辺地域にも攻撃が行われた。

焼夷弾

大磯町内にて拾得されたM50焼夷弾

大磯町内にて拾得されたM50焼夷弾

平塚空襲で投下されたものは、焼夷弾である。焼夷弾は、日本家屋が木と紙でできていることから、火災によって攻撃対象地域の破壊を広げる目的として開発された。高熱による発火や、油(焼夷剤)を広範囲に飛散させることによって、周囲の可燃物を延焼させた。

平塚空襲では、M17集束弾とM47焼夷弾が投下され、現在の大磯町内では、M17集束弾が散開することによって投下されたM50焼夷弾が多数見つかっている。焼夷弾は町を焼き払うだけでなく、弾が直接人体に当たることによって、死傷の原因となった。

さまざまな投下物

空襲で投下されたものは、焼夷弾や爆弾だけではない。空襲をより効果的に行うため、照明弾や、レーダーの電波をかく乱することを目的とした電波妨害用ロープなども投下された。このように、空襲によって投下されたさまざまな物は、時に拾われ、時に人々の目に触れ記憶となって、現在に伝わっている。

アルミ箔のロープ

アルミ箔のロープ

鷹取山の山中で拾われた電波妨害用に投下されたと考えられるロープ。当時、従軍し、陣地壕を鷹取山で構築していた方が拾得した。

ロープを拾った方の証言

昭和20年7月10日の昼中(何時ごろか記憶になし)、鷹取山の中腹を一人で歩いていたら、青空から悠々とアルミ箔が降ってきて目の前に落ちた。敵機の姿もない、爆音も聞こえない静寂の中でのできごと。アルミ箔も目の前に落下したひとつただそれだけ。

照明弾に関する証言

隣組の当番として空襲を知らせて戻ってきたら、照明弾で明るくなった。平塚の方で短冊状の真っ赤なものが落ちて来て、平塚が燃えた。

(東小磯在住、当時18歳の方の証言)

その他の落下物に関する証言

蔵の屋根に落ちたものが軒差しに落ちてきた。50cm四方位のブリキの板か。防空壕に出入りしていたときに、落ちてきた。

(台町在住、当時15歳の方の証言)

平塚空襲以外の空襲

大磯が空襲の被害を受けたのは、平塚空襲の時だけではない。大磯町や大磯駅に残された記録では、平塚空襲の半月後、7月30日に大磯駅が機銃や小型爆弾による攻撃を受け、駅職員が3人亡くなった。

この他、記録には残っていないが、証言によると、8月5日頃に、東小磯にあった池田農園付近の畑に爆弾が投下され、周辺の家屋の屋根瓦や窓ガラスが割れたという。

大磯駅の戦災記録簿

大磯駅の戦災記録簿 1945年(昭和20年)

大磯駅には、「戦災記録簿」という空襲被害をまとめた報告書が残されていた。この報告書は、一定の書式によって作成されていることがわかり、当時の駅では空襲被害を受けたとき、同一様式で報告することが義務付けられていたと推測できる。しかし、現在、これらの記録がすべて残っているとは考えにくい。大磯駅に残されていた記録は、大変貴重な資料と言える。

大磯駅の戦災記録簿からわかる被害状況

平塚空襲
日時:1945年7月16日23時45分
B29が59機大磯の上空に現れ、構内に焼夷弾多数および小型爆弾10数発を投下。駅長以下12名と護東第22054部隊の兵約20名の応援を得て、全部消火した。構内の上り1番線に収容中の客車9両に火災が発生し、これも兵隊と協力して消火に努めた。貨物ホーム3番線に留置されていた火薬甲2車・乙1車は、荷物手や踏切警手、町民の協力によって分散させた。

大磯駅の空襲
日時:1945年7月30日9時20分
敵小型機1機、平塚方面から来襲。乗降場、事務室付近にて急降下し、機銃掃射および小型爆弾を投下した。爆風および弾片にて事務室内に待避中の職員4名、1名即死、3名重傷。他に職員1名が即死した。乗降場は下り線側が長さ約10m、深さ1.7m爆破され、事務室の窓ガラス全部と屋根7坪が破損した。被害は、即死2名、重傷後死亡1名、重傷2名であった。

池田農園付近の空襲に関する証言

自宅前の畑に爆弾が落ちて、自宅が被害を受けた。爆弾が落ちたのは昼間だった。近くに東海道線の踏切があり、信号があった。空襲のサイレンが鳴って、停止信号で畑の向こう側に列車が停まった。そして、大勢の人たちが避難して来た。私たち三姉妹は防空壕に入り、防空頭巾を被って身を寄せ合っていた。どのくらい時間が過ぎたかわからないが、不意にドーンという地響きと轟音で体が揺れ、思わずうずくまった。その時、両親が走って来て爆弾が落ちたらしいといいながら、防空壕に入って来た。しばらくして空襲警報が解除され、外に出てみると畑一面にすり鉢状の大穴が空き、伝え聞いた人たちが集まって来て、大変な騒ぎになった。爆風で自宅に被害があった。2階の8畳の囲い廊下が少し傾き、ガラスがほとんど割れて、柱や廊下に突き刺さった。自宅は傾き、雨漏りもしたが、終戦までそのままだった。怪我人が出なくて幸いだった。

(東小磯在住、当時11歳の方の証言)

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