3-1 出征

更新日:2021年11月02日

日中戦争が始まると、大磯でも多くの人々が召集されるようになった。それまでは、徴兵の対象となる壮丁の人数に対して、常備兵の割合は約2割であったが、1940年(昭和15年)になると約8割に達した。大磯町(現在の国府地区を除く)でも、日中戦争と太平洋戦争で約1,500人が出征した。

出征兵士が増加することによって、兵士の見送りや遺骨の出迎えなどは次第に日常化し、盛大な見送りや町葬も参加者の減少や簡略化が見られるようになった。

また、兵士を出して残された家族の救済も課題となり、大磯漁業協同組合では、組合員やその長男が出征する場合は、家族に白米を支給していた。

出征兵士へ贈られた寄書の国旗

出征した兵士へ贈られた寄書の国旗

国旗を贈られた兵士の軍隊手帳

国旗を贈られた兵士の軍隊手帳

出征兵士には、寄書の国旗が贈られた。

上の国旗は、1940年(昭和15年)1月に大磯町高麗から出征した兵士へ贈られたもの。兵士が所持していた軍隊手帳から、この兵士は中国大陸に出兵していた隊に所属し、1943年(昭和18年)12月に一度除隊となるが、翌年8月に再び召集を受け、本土決戦に備え千葉県に布陣していた隊に所属した。1945年(昭和20年)9月に復員した。

寄書の国旗は2枚つくられ、1枚は本人が戦地へ持参し、もう1枚は一度出征を経験した元兵士(在郷軍人)に預けることによって、無事を願ったという。また、少将など高位の軍人の名が記されていると、軍隊でいじめられないと言われていた。

千人針の腹巻

千人針の腹巻

千人針とは、出征する兵士に対して、無事を祈って、千人の女性たちが一針ずつ縫いとめて作成した刺しゅうのことをいう。腹巻にして身に着けたため、この資料では刺しゅうが内側にあり、見ることができない。腹巻の中には、刺しゅうと一緒に、お守りや「死線(四銭)を越える」ことを願って五銭玉が一緒に縫いとめられた。

兵士の見送りに使われた旗

兵士を見送る時に使われた旗 1944年(昭和19年)頃

出征する兵士を見送る時は、このような小旗を振って送った。この資料には、商店名が記されているため、同店が配布したものかもしれない。

出征者の軍装・装備品

三八式歩兵銃

三八式歩兵銃

この銃は、日露戦争後の1906年(明治39年)に正式に採用された。太平洋戦争では、1941年(昭和16年)に正式採用された99式短小銃が主力兵器として使用されたが、この38式歩兵銃も実践で使用された。

陸軍歩兵伍長に任命された者が着用した軍服

陸軍歩兵伍長に任命された者が着用した軍服

陸軍の98式軍衣

陸軍の98式軍衣(軍服)

左は、陸軍の1912年(明治45年)制式下士卒用の軍衣(軍服)で、1937年(昭和12年)11月に、陸軍歩兵伍長に任命された者が着用した。

右は、陸軍の98式(1938年(昭和13年)制)の軍衣で、この年から、軍服が変わった。襟のかたちが詰襟から折襟に変わっている。一緒に保管されていた襟章と肩章は、歩兵科および軍曹の通常礼装用のもの。右胸に付けられている徽章は、帝国在郷軍人会の会員徽章で、はい用されたまま保管されていた。着用した者の詳細はわからないが、支那事変(日中戦争)従軍記章とともに保管されていたため、日中戦争に従軍した者が着用した可能性がある。

大磯における日中戦争・太平洋戦争における戦死者数

現在の大磯町は、当時は大磯町と国府村との二つの町村に分かれていた。両町村の戦死者数は、382人であった。1940年(昭和15年)の両町村の人口は15,716人であり、そのうち大磯町(国府村の人数は不明)では約1,500人が出征し、両町村で約400人が命を落としていることになる。出征者や戦死者の家族も含めて考えれば、多くの人が影響を受けたことがわかる。

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