【吉田茂資料紹介】耕余義塾時代の作文
大磯町郷土資料館が令和3年3月末に発行した『資料館資料19 吉田茂関連資料目録(一) 吉田家旧蔵資料』に収録されている資料を順次ブログにてご紹介していきます。
耕余義塾時代の作文
向かって右端が吉田茂(明治24年)
今回ご紹介するのは、吉田茂が耕余義塾の塾生のときに書いた作文です。
吉田茂は横浜の太田小学校を卒業後、明治22年(1889)に現在の藤沢市域にあった私塾・耕余塾(こうよじゅく)に入塾します。明治11年(1878)生まれの吉田はこの時、数え年で11歳でした。
耕余塾はもともと漢学者であった小笠原東陽がはじめた漢学塾です。公的な教育施設ではなかったものの、地域の中等教育機関として名をはせていました。
耕余塾の特徴のひとつは、相武地域という自由民権運動が盛んだった土地柄を反映し、自由党の子息が多く在籍していたことです。塾生には、自由民権運動家の村野常右衛門(むらの・つねえもん)などもいます。吉田茂も、自由党副総裁だった中島信行の勧めで入塾しました。
吉田が入塾したのは初代の塾長である小笠原東陽が亡くなったあとで、慶應義塾出身の教師を中心に、英語に重心をおいたカリキュラムが実施されていた時期でした。塾の名前も、吉田が入学した直後に、「耕余義塾(こうよぎじゅく)」と改められています。
「国家の礎、急務」
当館が所蔵している吉田の作文は全部で6つ。紙のこよりでつづられた原稿用紙の中央には、「耕餘(余)義塾原稿用紙」と印字されています。これらの作文は、吉田茂と長男で作家の吉田健一が対談した「大磯清談」(吉田健一『父のこと』中央公論新社、2017年に収録)でも取り上げられています。このときの吉田の回想によると、これらの作文はおそらく吉田が13歳から14歳のころに書かれたものだということです。
今回はそのうちの一つ、「国家の礎、急務」という題名の作文をご紹介します。
まず、冒頭のタイトルをご覧ください。「国家の磯、急務」と書かれています。本文でも同じく「磯(イソ)」という漢字が頻出しますが、これは「礎(いしずえ)」の誤りです。欄外に赤字で「礎」と先生からの訂正が入っています。吉田にとって大磯の「磯」という漢字が身近だったために、ついつい筆がすべったのでしょうか。
吉田茂が耕余塾に入塾したのはちょうど大日本帝国憲法が制定された年で、日本において近代化が大きく進展していた時代でした。耕余塾でも、伝統的な漢学の講義に加え、英語や欧米の歴史や法制度などの科目をカリキュラムに組み込んでいました。
吉田の作文からは、こうした耕余塾で培ったであろう知識の一端を垣間見ることができます。吉田の作文には、「生存競争」や「自然淘汰」といった言葉が随所にでてきますが、これはおそらく当時アメリカや日本で流行していたスペンサーの社会進化論の影響だと考えられます。社会進化論は、ダーウィンが提唱した生物の進化論をベースとして、それを人間社会にあてはめて考えた社会学の理論です。
作文では、国家を発展させていくための方策が次のように論じられています。
然(しか)らば則(すなわ)ち、存生競争場裡にあり歌を奏し自然淘汰の世にありて勝を得る果して如何(いかん)、国民に正邪曲直を弁知識別するの力を有し、決然たる決心、凛然たる勇謄を養生せしむるの法果して如何、政治思想を国民に養生せしむるにあるか、軍艦製造にあるか、県会議員選挙にあるか、殖産工業の隆盛を計るにあるか、移住殖民にあるのか、余輩慇愚、学なき識なき一書生、敢(あえ)て貴重なる紙面を汚すの値なしと雖(いえど)も、断々乎として教育にあると云う
吉田は、国家の発展は教育によって成し遂げられると力強い論調で述べています。奇しくも、戦後に吉田は内閣総理大臣として、教育基本法の制定に立ち会うこととなりました。
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更新日:2021年05月23日