ウェブ講座 吉田茂の手紙を読む <ご案内>

更新日:2021年05月20日

はじめに

吉田茂は岸信介に「書簡戦術が得意」と言われるほど、筆まめな人物でした。

たとえば、吉田からGHQのマッカーサー元帥にあてた手紙は100通余りが現存しています。また、(財)吉田茂国際基金が編集した『吉田茂書翰』『吉田茂書翰 追補』(いずれも中央公論社発行)にも、吉田から様々な人物にあてた手紙の内容が収録されており、その数は合計1404通にも及びます。しかし、これらの資料集も吉田の手紙すべてを網羅しているわけではなく、吉田が生涯を通じて膨大な数の手紙を書いたであろうことがうかがえます。なお、吉田茂の手紙は、基本的にくずし字の候文(そうろうぶん)で書かれており、同時代の人々のあいだでも読みにくいことで有名でした。宛先を読むのも一苦労で、大磯の郵便局長は、しばしば宛先の確認のために吉田邸を訪れていたといいます。

吉田茂と同時代の政治家はしばしば日記を残していますが、吉田はそうではありませんでした。吉田の膨大な手紙は、吉田の思考の一端を知るうえで非常に有益な資料です。

このコロナ禍のなか、ご自宅でも吉田茂のことを知ってもらう機会があればと思い、ウェブ講座「吉田茂の手紙を読む」を始めることにしました。
毎月月初めに1回のペースで、ブログにて全10回の記事を更新していきます。
第1回目は6月2日更新予定です。

今回使用する資料について

今回の講座でご紹介するのは、吉田茂が谷口直枝子(たにぐち・すえこ)にあてた一連の手紙です。

谷口直枝子は、吉田茂が最初に外交官として赴任した奉天総領事館で、吉田の直属の上司だった総領事の加藤本四郎の妻だった人物です。加藤夫妻は明治37年(1904)に勃発した日露戦争の際には、朝鮮の仁川におり、直枝子夫人は仁川領事夫人として篤志看護婦人会を組織し、仁川の戦いで負傷したロシア兵士の治療にあたりました。のちに、川上音二郎率いる川上一座が、日露戦争を見聞した内容を『戦況報告演劇』として上演していますが、この時、川上一座の看板女優だった貞奴(さだやっこ)が仁川領事夫人役を演じています。

加藤本四郎は奉天総領事の任期中に病で急逝し、直枝子夫人はのちに東郷平八郎の仲介で、海軍の谷口尚真(たにぐち・なおみ)と再婚し、谷口姓となりました。

当館が所蔵している谷口直枝子宛吉田茂手紙は全部で89通。すべて戦後に書かれたものです。谷口直枝子は民藝運動を主導した柳宗悦(やなぎ・そうえつ/むねよし)の姉でもあり、そのつながりで柳宗悦や川端康成らとともに大磯の吉田邸を訪問するよう吉田から誘いを受けたりもしています。今回ご紹介する吉田の手紙からは、こうした吉田の交流関係や折々の心情がうかがえます。

 

吉田茂書簡1-1

谷口直枝子宛吉田茂書簡

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〒255-0005
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