吉田茂と旧吉田茂邸について
吉田茂について
生い立ち
明治20年代頃 幼少期の吉田茂
吉田茂は明治11年(1878)東京に生まれました。
父は土佐藩(現在の高知県)出身の民権運動家・竹内綱で、板垣退助率いる自由党土佐派の主要人物でした。茂は竹内綱の五男にあたり、三歳のときに横浜の貿易商である吉田健三の養子となっています。
幼少期の吉田は、健三の自宅があった横浜に暮らしていましたが、健三とともに大磯の別荘をしばしば訪れ、山での狩りや海での砂遊びなどを楽しんでいたそうです。
外交官時代
昭和10年代前半 イギリス大使時代
吉田茂は明治39年(1906)に東京帝国大学を28歳で卒業し、外務省に入省しました。翌年より、中国の奉天総領事館の領事官補として外交官のキャリアをスタートさせ、約20年間外交官としての職務に身を投じました。中国の奉天や安東、済南、天津のほか、イタリア、イギリスなどヨーロッパへの赴任も経験しています。
また、昭和3年(1928)から5年まで、田中義一および浜口雄幸両内閣の外務次官を務めました。その後はイタリア・イギリス大使を歴任し、昭和14年(1939)に外務省を退官しました。
戦時中、吉田は戦争の早期終結を目指して奔走しました。大磯町内に家を構えていた樺山愛輔、池田成彬、原田熊雄らとはしばしば大磯で和平工作の話し合いをしていたと言われています。しかし、そうした和平工作活動が一因となり、昭和20年(1945)4月に吉田は軍部に逮捕され、約40日間ほど拘留されました。
政治の舞台へ
昭和26年(1951)サンフランシスコ講和条約調印
戦後、政界や軍部といった、これまで日本の権力の中枢を担っていた人々が相次いで逮捕・追放されていくなか、吉田茂は、にわかに政治の表舞台に立つことになりました。
昭和20年(1945)8月より東久邇宮稔彦王内閣に外務大臣として入閣し、次の幣原喜重郎内閣のときも同ポストに再任しています。
昭和21年(1946)5月には第一次吉田茂内閣が成立。その後も内閣総理大臣として第5次まで内閣を組閣し、長期政権を作り上げた吉田は、日本国憲法の制定やサンフランシスコ講和条約および日米安全保障条約への調印など、現在に至る日本の基礎を築きました。
大磯と吉田茂
別荘地・大磯と吉田家
昭和34年(1959) 兜門の前に立つ吉田茂
近代の大磯は軍医・松本順によって海水浴場が開かれ、政財界や華族、文士など様々な人々が集う別荘地として発展してきました。
吉田と大磯とのつながりも明治までさかのぼります。茂の養父であった健三が、明治17年(1884)大磯町の西小磯に土地を購入し、別荘を構えたのがはじまりです。健三亡きあと、吉田家唯一の継子であった茂は健三の財産を受け継ぎました。
吉田は養父が築いた莫大な財産を外交官時代に使い果たしたといわれていますが、それでもこの大磯の邸宅は手放すことがありませんでした。
総理大臣時代、激務だった吉田の気分転換は、週末を大磯で過ごすことだったといいます。吉田自身が言うように、大磯の開かれた海、明るさ、暖かさは、戦後日本のかじ取りという大きな使命を担った吉田を癒しました。
大磯の迎賓館
昭和35年(1960)
西ドイツ首相のアデナウアーと吉田茂
昭和20年(1945)頃より、吉田茂は大磯を本宅として暮らすようになりました。
昭和29年(1954)内閣総理大臣を辞任し大磯に隠棲したのちも、吉田のもとには政財界の要人を筆頭に様々な人々が訪れました。吉田邸を訪れる人が絶えないために「大磯詣(もうで)」という言葉ができたほどです。
また、吉田は自身の邸宅を海外の賓客を迎えるための迎賓館として改築し、世界各国からの賓客を多く受け入れました。
地元との交流
昭和39年(1964)大磯小学校児童の吉田邸宅訪問
(『広報大磯』第46号掲載)
幼少期より大磯に親しみ、晩年を大磯で過ごした吉田茂は、昭和40年(1965)大磯町初の名誉町民となりました。
吉田が大勲位菊花大綬章を受賞した際には、大磯小学校の児童たちが吉田邸を訪問し、お祝いの言葉を贈っています。
昭和42年(1967)、吉田は大磯の自宅で息を引き取りました。多くの大磯町民が国道一号線の沿道で葬列を見送り、吉田に別れを告げました。
町内には吉田がひいきにしていたお店が現在でも残っています。町民とのつながりが深かった吉田は、今も昔も大磯の人々に愛されています。
旧吉田茂邸について
建物の構成と変遷
昭和30年代 大磯吉田茂邸
焼失前の吉田邸は、大正時代の「旧館棟」、昭和10年代に吉田茂の書斎として建てられた「ベランダ棟」、昭和20年代の「応接間棟」と、昭和30年代に増改築した「新館棟」で構成されていました。
吉田は昭和20年(1945)に大磯の邸宅を本宅として使用し始め、それに伴って本格的な建物の増改築に着手するようになりました。
昭和22年(1947)頃建てられた応接間棟は劇場建築を多く手掛けた建築家・木村得三郎の設計です。1階が応接間(楓の間)で、2階が吉田茂の私室(書斎)でした。
また、昭和30年代に新館棟(金の間・銀の間)が建てられると、吉田の生活の場もそちらに移りました。
吉田五十八(いそや)の近代数寄屋建築
昭和30~40年代頃 金の間
昭和30年代後半、建築家・吉田五十八の設計で新たに新館棟が増築され、すでにあった食堂や玄関・玄関ホールの改修が行われました。
吉田五十八は、ヨーロッパのモダニズム建築が盛んに日本でも取り入れられていた昭和前期に、あえて日本の古典的な数寄屋建築を見直し、モダニズムと古典の融合を目指して近代数寄屋建築という建築様式を確立しました。
旧吉田茂邸においても、モルタル塗り回しの大壁造りで柱を隠す手法が用いられるなど、吉田五十八の建築の特徴が随所に表れています。
邸宅の焼失と再建
平成21年3月22日
旧吉田茂邸で発生した火災の様子
平成21年(2009)3月22日、旧吉田茂邸において火災が発生しました。幸い敷地内の兜門や庭園は焼失を免れましたが、母屋は全焼しました。神奈川県と大磯町が同邸宅の活用を検討していた最中のことでした。
大磯町は、火災直後より「大磯町旧吉田茂邸再建基金」を設置し、募金活動を開始しました。その後、平成24年(2012)に県と町が旧吉田茂邸再建事業に係る基本協定を締結し、平成28年(2016)には再建工事が完了しました。これにより、一部を除いてほぼ焼失前の邸宅を再現することができました。
再建事業の詳しい内容については、旧吉田茂邸再建事業をご覧ください。
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更新日:2021年10月28日