ウェブ講座 吉田茂の手紙を読む <その10>
大磯町郷土資料館(旧吉田茂邸)で所蔵している吉田茂の手紙をご紹介する企画、ウェブ講座「吉田茂の手紙を読む」の第10回(最終)です。
最終回は、昭和30年1月6日付および1月17日付で書かれた谷口直枝子宛吉田茂の手紙を読んでいきます。
※谷口直枝子については、「ウェブ講座 吉田茂の手紙を読む<ご案内>」をご覧ください。
記事の構成は以下の通り。
【1】釈文(手紙に書いている文字を起こしたもの)
【2】書き下し文(釈文の読み方)
【3】現代語訳
【4】動詞について
【5】内容解説
また、下記の印刷用のテキストをご活用ください。
昭和30年1月6日付 谷口直枝子宛 吉田茂書簡
【1-1】釈文
賀正
新年早速賀状頂戴仕奉謝候、久方振之のどかな新年ニ気をよくし平生の疎懶一層加ハり何方へも御無沙汰御ゆるし可被下候、幸ニ元気ニ有之、幸ニ御安心玉るへく候、其内御帰東と存候、書外譲拝晤候 敬具
吉田 茂
谷口御後室様
御前
一月六日
【1-2】書き下し文
賀正
新年早速賀状頂戴奉謝仕(つかまつ)り候(そうろう)、久方振りののどかな新年に気をよくし、平生の疎懶(そらん)一層加わり、何方へも御不沙汰御ゆるし下さるべく候、幸いに元気に之(こ)れ有(あ)り、幸いに御安心玉(たまわ)るへく候、其の内御帰東と存じ候、書外拝晤に譲り候 敬具
吉田 茂
谷口御後室様
御前
一月六日
【1-3】現代語訳
賀正
新年に早速年賀状を頂戴し感謝申し上げます。久方振りののどかな新年に気をよくし、日ごろの無精が一層加わり、どちらへもご無沙汰しておりお許しください。幸いに元気にしております。幸いにご安心いただきますよう。その内東京へ帰られることと存じます。書面以外のことはお会いした時に譲ります。敬具
吉田 茂
谷口御後室様
御前
一月六日
昭和30年1月17日付 谷口直枝子宛 吉田茂書簡
【2-1】釈文
拝啓 寒漸くきひしく相成、御さわりも無之被為入候哉奉伺候、昨日不斗も鈴木孝子夫人関宿より御来訪被下(故大将の肖像画御見せ被下候為)、折角御出ニ付あなた様ニも御出を願候得者よろしかりしと申候処、既ニ御帰東と承知致残念仕候、当地ハ殊の外暖気ニて既ニ梅もほこび〔ママ〕はじめ候、月末ニハ満開と可相成、その内御気のむき候折御来駕奉待候、先ハ御きげん伺旁右まて申上度、乍末筆寒中御身御大切ニと奉存候 敬具
吉田茂
谷口御後室様
御前
壱月十七日
【2-2】書き下し文
拝啓 寒さ漸(ようや)くきびしく相成(あいな)り、御さわりも之(こ)れ無(な)く入らせられ候(そうろう)哉(や)、伺い奉(たてまつ)り候、昨日斗(はから)ずも鈴木孝子夫人関宿より御来訪下され(故大将の肖像画御見せ下され候為)、折角御出でに付きあなた様にも御出でを願い候えばよろしかりしと申し候処、既に御帰東と承知致し残念仕り候、当地は殊の外暖気にて既に梅もほころびはじめ候、月末には満開と相成るべく、その内御気のむき候折御来駕待ち奉り候、先(ま)ずは御きげん伺い旁(かたがた)右まで申し上げたく、末筆乍(なが)ら寒中御身御大切にと存じ奉り候 敬具
吉田茂
谷口御後室様
御前
壱月十七日
【2-3】現代語訳
拝啓 寒さが次第に厳しくなってきましたが、お障りもなくお過ごしかと存じます。昨日思いがけず鈴木孝子夫人が関宿よりご来訪下さり(故〔鈴木貫太郎〕大将の肖像画をお見せくださったため)、折角のお出でですのであなた様にもお出でを願えたらよいと思いましたが、すでに東京にお帰りと知り残念です。当地は殊の外暖かく、すでに梅もほころびはじめました。月末には満開となるでしょう。そのうちお気の向いた時のご訪問をお待ちしております。まずはご機嫌伺いかたがた右まで申し上げたく、末筆ながら寒中お身体をお大事になさってください。 敬具
吉田茂
谷口御後室様
御前
一月十七日
【4】動詞について
最終回は吉田茂の書簡に頻出する古文書特有の基本動詞などを、今までの回でご紹介した候文の定型文や返読文字も含め、改めてご紹介します。
仕…「仕(つかまつる)」は、「する」「行う」など動詞の謙譲語です。「仕候(つかまつりそうろう)」で、「いたします」「申し上げます」などの意味となります。
下…「下(くだす)」は「…してください」と補助動詞で使われる場合が多い動詞です。補助動詞として使用される場合、受身・尊敬・可能を表す助動詞「被(る・らる)」とセットで「被下(くだされ)」「被下候(くだされそうろう)」、またさらに意志・命令などの意味を表す「可(べし)」が付いて、「可被下(くださるべく)」「可被下候(くださるべくそうろう)」という形で登場したりもします。
有…「有(あり)」は「…がある」「存在する」の意味で、下に「之」が付いて、「有之(これあり)」と書かれる場合が多く、吉田の場合もかなりくずした形で書かれています。「有」の対義語となる「無」でも、「無之(これなし、これなく)」となることもあります。
存…「存(ぞんず)」は「思う」「考える」の謙譲語です。「存候」で「思います」の意味となります。ほかに、「奉存候(ぞんじたてまつりそうろう)」は頻出の語句です。
成…「成(なす・なる)」は「行う」「できあがる」などの意味の動詞です。吉田の書簡では、「相成(あいなり)」と文章の語調を整える接頭語「相(あい)」とセットになっている場合が多い単語です。なお、「成」のくずし字は「来」のくずし字と非常によく似ており、注意が必要です。
【5】内容解説
1昭和30年1月6日付書簡
「賀正」から始まるこの手紙は、吉田から谷口夫人にあてた新年の挨拶状です。前年の年末に第5次吉田内閣が総辞職し、首相を退いた吉田は、「久方振之のどかな新年ニ気をよくし」とあるように、それまでの多忙な日々から一転し、落ち着いた新年を迎えたようです。「其内御帰東と存候」とありますが、宛先に書かれた谷口夫人の住所が兵庫県神戸市となっており、さらに2.の書簡では、東京都目黒区に住所が移っていることから、ちょうど関西から東京に戻ってくるタイミングだったようです。
2昭和30年1月17日付書簡
1の書簡と同じ月に出された手紙です。新年早々、吉田茂のもとに来客があったことが手紙からわかります。「昨日不斗も鈴木孝子夫人関宿より御来訪被下」とありますが、この「鈴木孝子夫人」とは、終戦時に首相を務めた鈴木貫太郎の妻です。終戦後鈴木貫太郎は、自身の故郷であった千葉県の関宿(せきやど、現在の千葉県野田市)に疎開し、昭和23年に没するまでこの地で暮らしました。
鈴木貫太郎と吉田茂は、敗戦と復興の首相という対照的なポジションにあった二人ですが、鈴木が昭和初期に昭和天皇の侍従長を務めた関係で、同じく宮中の要職である宮内大臣・内大臣を歴任した吉田の岳父・牧野伸顕を介して吉田ともつながりがありました。吉田の終戦直後の東久邇宮内閣で外務大臣の任命されたおりに関宿の鈴木のもとを訪れています。この時鈴木は、「戦争は勝ちっぷりもよくなくてはいけないが、負けっぷりもよくないといけない。鯉はまな板の上に載せられてからは、庖丁(ほうちょう)をあてられてもびくともしない。あの調子で負けっぷりをよくやってもらいたい」と語ったそうです。吉田はこの鈴木の言葉をGHQとの交渉の原則とし、「言うべきことは言うが、心から協力する気持ちを持つ」ことにしたと述べています。
手紙では、鈴木夫人は「故大将の肖像画御見せ被下候為」、すなわち鈴木貫太郎の肖像画を吉田に見せるためにやってきたと書かれています。吉田の首相としての心構えを説いた鈴木貫太郎の夫人が、吉田の首相退任直後に大磯を訪れたのは、大任を終えた吉田をねぎらう意味もあったのかもしれません。
参考文献:吉田茂『日本を決定した百年』日本経済新聞社、1967年
この記事に関するお問い合わせ先
〒255-0005
神奈川県中郡大磯町西小磯418
電話番号:0463-61-4777
ファックス:0463-61-4779
メールフォームによるお問い合わせ
更新日:2022年03月03日