ウェブ講座 吉田茂の手紙を読む <その5>

更新日:2021年10月01日

大磯町郷土資料館(旧吉田茂邸)で所蔵している吉田茂の手紙をご紹介する企画、ウェブ講座「吉田茂の手紙を読む」の第5回目です。毎月1回、全10回の連載を予定しています。

第5回目は、昭和28年6月22日付で書かれた谷口直枝子宛吉田茂の手紙を読んでいきます。
 ※谷口直枝子については、「ウェブ講座 吉田茂の手紙を読む<ご案内>」をご覧ください。

記事の構成は以下の通り。

【1】釈文(手紙に書いている文字を起こしたもの)
【2】書き下し文(釈文の読み方)
【3】現代語訳
【4】返読文字について〈1〉
【5】内容解説

また、下記の印刷用のテキストをご活用ください。

吉田茂の手紙を読む<第5回印刷用テキスト>(PDFファイル:934.7KB)

 

昭和28年6月22日付 谷口直枝子宛 吉田茂書簡

昭和28年6月22日付谷口直枝子宛吉田茂書簡1
昭和28年6月22日付谷口直枝子宛吉田茂書簡2
昭和28年6月22日付谷口直枝子宛吉田茂書簡3
昭和28年6月22日付谷口直枝子宛吉田茂書簡4
昭和28年6月22日付谷口直枝子宛吉田茂書簡5
【1】釈文

拝復

過日御出の節ハ折柄の雨天ニて花も御覧ニ入る事出来不申、又清元を御聞かせ申度と存候処、それも出来不申残念ニ奉存候、其内又の機会ニと存候、平生政界の混濁ニ面白からす、大ニ癇癪を起居候処、御出ニて清談一夕、小生ニハ此上もなき慰ニ御座候、其内柳氏及志賀直哉氏と共ニ御出を願度、志賀氏へは柳氏より懇意御伝声奉願候、先ハ一応の御返しまで如此候、頓首

  六月廿ニ日   茂

谷口御奥様

      御前

 

【2】書き下し文

拝復

過日御出の節は折柄の雨天にて花も御覧に入る事出来申さず、又清元を御聞かせ申したくと存じ候(そうろう)処(ところ)、それも出来申さず残念に存じ奉(たてまつ)り候、其(そ)の内又の機会にと存じ候、平生政界の混濁に面白からず、大いに癇癪を起し居り候処、御出にて清談一夕、小生には此の上もなき慰めに御座候(ござそうろう)、其の内柳氏及び志賀直哉氏と共に御出を願いたく、志賀氏へは柳氏より懇意御伝声願い奉り候、先(ま)ずは一応の御返しまで此(かく)の如(ごと)く候、頓首

    六月廿ニ日     茂

谷口御奥様

      御前

 

 

【3】現代語訳

拝復

先日お越しいただいた時は折しも雨天で花もご覧に入れることができず、また清元節をお聞かせしたいと思っていたところ、それもできませんで残念に思っております。そのうちまたの機会にと思っております。普段、政界の混濁に面白くなく、大いに癇癪を起しておりますところ、お越しいただいて一晩清談するのは、私にはこの上もない慰めでございます。そのうち柳〔宗悦〕氏及び志賀直哉氏と一緒にお越し願いたく、志賀氏へは柳氏からよろしくお伝えくださいますようお願い申します。まずはこのように一応のお返事まで。頓首

    六月二十ニ日   茂

谷口御奥様

      御前

 

【4】返読文字について〈1〉

古文書の読み方を難しくしているひとつの要因に、漢文のように、ひっくり返って読む「返読文字」の存在があるかと思います。ここでは、特に吉田茂がよく使用する返読文字と、それらを使った語句をご紹介します。

不申(もうさず) 

「申(もうす)」は「言う」の謙譲語です。「不申」では、「不」が返読文字となり、「申さず」となります。なお、吉田の手紙の冒頭のあいさつ文で頻出するのが「御不沙汰(ごぶさた)」で、この際の「不」は返らずに読みます。本来は「無」を使い、「御無沙汰」と表記しますが、「不」を使うのが吉田独特の表現です。

奉存候(ぞんじたてまつりそうろう) 

「存(ぞんす)」は「思う」「考える」の謙譲語です。「奉存候」は頻出の語句で、この場合は「奉(たてまつる)」が返読文字となりますので、「存じ奉り候」の順で読む形になります。なお、同じく本文に「奉願候(ねがいたてまつりそうろう)」がでてきますが、こちらも「奉」が返読文字となります。

如此(かくのごとく)

「如」が返読文字で、「…の如し(く)」といった使われ方をします。今回の「此の如く(かくのごとく)候」は、「この通りです」という意味で、吉田の手紙の文末に頻出します。同じ意味で、もう少し丁寧な「此の如くに御座候(かくのごとくにござそうろう)」もしばしば使われます。

 

【5】内容解説

当時の政局について

吉田茂は手紙のなかで、「平生政界の混濁ニ面白からす、大ニ癇癪を起居候」と愚痴をこぼしていますが、確かに昭和28年から29年にかけては、吉田にとって難局続きでした。昭和28年2月28日、衆議院予算委員会で、社会党の西村栄一議員が発言した内容に対し、吉田が小声で「バカヤロー」とつぶやきました。これがマイクで拾われ、問題発言として取り上げられ、ついには3月14日に第4次吉田内閣が解散する事態となりました。いわゆる「バカヤロー解散」です。さらに翌日、鳩山一郎ら自由党内の一部議員が鳩山を総裁とした新党を結成するとして、自由党が内部分裂しました。その1か月後、総選挙で自由党は199議席を獲得し、過半数には至らなかったものの、衆議院で第1党となり、からくも第5次吉田内閣が成立しました。しかし、内閣成立以降も政局の混乱は続き、昭和29年末には、吉田は首相の座を降りることとなりました。こうした一連の出来事に対し、吉田は大いに癇癪を起していたのでしょう。

柳宗悦と志賀直哉

手紙では、谷口直枝子とともに、柳宗悦や志賀直哉を大磯の吉田邸に招待しています。柳は以前ご紹介した通り、谷口夫人の実弟ですが、ここではほかに志賀直哉の名前も登場します。柳と志賀は大正時代に現在の千葉県我孫子市手賀沼でご近所だった仲でした。当時手賀沼は、白樺派と呼ばれた文学者たちの集まる、一種の文化サロンのような場所になっていました。柳や志賀のほか、武者小路実篤やバーナード・リーチらもこの地に居を構えました。志賀が大磯の吉田邸に招かれたのも、そうしたつながりがあったからだと考えられます。ちなみに、現在の旧吉田茂邸には、吉田が持っていた蔵書の一部が展示されており、そのなかに志賀から吉田に贈られたサイン本もあります。『秋風』というタイトルの本ですので、ご来館の際には、ぜひ探してみてください。

次回予告

次回は、吉田と同じく大磯の別荘族であり、日本人で初のオリンピックに出場した三島弥彦の名前が登場します。

11月2日(火曜日)更新予定です。

この記事に関するお問い合わせ先

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〒255-0005
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ファックス:0463-61-4779
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