ウェブ講座 吉田茂の手紙を読む <その1>
大磯町郷土資料館(旧吉田茂邸)で所蔵している吉田茂の手紙をご紹介する企画、ウェブ講座「吉田茂の手紙を読む」を開始します。毎月1回で全10回の連載を予定しています。
今回は第1回目、昭和21年6月7日付で書かれた谷口直枝子宛吉田茂の手紙を読んでいきます。
※谷口直枝子については、前回の記事「ウェブ講座 吉田茂の手紙を読む<ご案内>」をご覧ください。
記事の構成は以下の通り。
【1】釈文(手紙に書いている文字を起こしたもの)
【2】書き下し文(釈文の読み方)
【3】現代語訳
【4】手紙の形式について
【5】内容解説
また、下記のPDFに印刷用のテキストと吉田の手紙に書かれた文字の用例をまとめましたので、ご活用ください。
吉田茂の手紙を読む<第1回印刷用テキスト>(PDFファイル:834KB)
吉田茂手紙文字用例1(PDFファイル:157.1KB)
昭和21年6月7日付 谷口直枝子宛 吉田茂書簡
【1】釈文
拝啓
其後何日となく御無沙汰ニ相過変転激敷当節、如何被為候哉と存罷在候処、御無事御疎開の趣拝承仕、誠ニ大慶至極ニ奉存候
然る処御次男様御戦死之趣、嘸かし御嘆きの事と奉拝察候
又、今回の事、小生とし而ハ全く思懸けも致さぬ事ニて、自ら量らさる不届の事と朝夕自責焦心罷在、唯々大過なきを祈念罷在候
不取敢御返事迄、乍末筆晩春折角御身御大切ニと奉万祷候 草々
六月七日 茂
谷口御後室様
御許
【2】書き下し文
拝啓
其の後何日となく御無沙汰(ごぶさた)に相過ぎ、変転激しき当節、如何(いかが)為(な)され候やと存じ罷(まか)り在(あ)り候処(ところ)、先(ま)ず以(もっ)て御無事御疎開の趣拝承(はいしょう)仕(つかまつ)り、誠に大慶至極に存じ奉(たてまつ)り候
然(しか)る処、御次男様御戦死の趣、嘸(さぞ)かし御嘆きの事と拝察奉り候
又、今回の事、小生としては全く思懸(おもいが)けも致さぬ事にて、自(みずか)ら量(はか)らざる不届の事と朝夕自ら責め焦心罷り在り、唯々大過なきを祈念罷り在り候
取(と)り敢(あ)えず御返事迄(まで)、末筆ながら晩春折角御身御大事にと万祷(ばんとう)奉り候 草々
六月七日 茂
谷口御後室様
御許
【3】現代語訳
拝啓
その後何日もご無沙汰に過ぎ、目まぐるしく変化するこの頃、いかがされているかと思っておりましたところ、何はともあれ無事に疎開されたとのことをお聞きし、この上もなく喜ばしいことと存じます。
ところで、ご次男様が戦死されたとのこと、さぞお悲しみのことと拝察します。
また、今回のことは、私としては全く思いがけないことで、自分では思い量ることもできず、行き届かないことといつも自分を責め、思い煩っております。ただただ、大過のないことを祈念しております。
とりあえずお返事まで。末筆ながら晩春十分気を付けてお身体お大切にと祈り上げます。草々
六月七日 茂
谷口御後室様
御許
【4】手紙の形式について
手紙には基本的な形式があり、くずし字で書かれた手紙でも、形式を手掛かりにある程度読み解くことが可能です。現代の私たちが手紙を書く際のルールと吉田の時代のそれとは共通している部分も多い一方で、現代では使われなくなった言葉もしばしば登場します。ここでは、一般的な手紙の形式を説明しつつ、吉田がよく使用していた用語もあわせてご紹介します。
1頭語(とうご)
手紙の冒頭に来るのが頭語です。今回は「拝啓」から始まっていますが、返信の場合には「拝復(はいふく)」も用いられいます。ほかに吉田の手紙では、「粛啓」や「前略」も見られます。
2時候の挨拶
一般的な手紙の形式としては、頭語のあとに「向暑の候、益々ご清栄のこととお慶び申し上げます」などと時候の挨拶が続きます。ただし、吉田の手紙では、形式的な事項の挨拶は省略される場合が多く、頭語のあとすぐに本題に入ることもしばしばです。今回の場合は、「其後何日となく御不沙汰ニ相過」から始まり、「誠ニ大慶至極ニ奉存候」までが、挨拶文といえるでしょう。このほか、よく吉田の手紙で散見されるフレーズとしては、「御書難有拝読」と手紙への礼を述べているものや、「過日ハ御光来被下難有奉存候」と来訪の礼を述べているものなどがあります。
3本文
本文の書きだしは、現在では「さて」などから始まりますが、当時は「扨而(さて)」のほか、「陳者(のぶれば)」がよく用いられていました。「陳者」とくると、ここから本題が始まるという目印になります。今回の場合は、「然る処(しかるところ)」という接続詞で始まっています。ここでは「ところで」の意味で用いられ、話題の切り替えに使われています。
4結語(けつご)
頭語で「拝啓」とくると、最後に結語で「敬具」と付くルールは現在の私たちもよく用いるものです。吉田は、「敬具」のほか、「草々」「頓首」あるいは「匆々(そうそう)敬具」「匆々(そうそう)不一」などの言葉を用いています。
5月日
吉田の手紙の場合、基本的に年は入らず、月日だけが記されるパターンがほとんどです。
6差出
吉田の手紙の場合はここに「吉田茂」と入ります。「茂」と名前のみの場合もあり、今回は後者のパターンです。
7宛先
宛先の氏名に加え、既婚女性には「御後室(ごこうしつ)様」「御奥(おんおく)様」、男性には「老台(ろうだい)」「老兄(ろうけい)」と敬称が付く場合があります。通常は「老台」「老兄」は年長の男性の敬称ですが、吉田より年少の人物にもしばしば用いられます。
8脇付け
脇付けは手紙の宛先に添えて、敬意を表します。今回の谷口直枝子宛の手紙の場合は、高位の夫人を敬う「御前(おんまえ)」「御許(おんもと/おもと)」が頻繁に使用されていますが、男性に宛てて書く場合は「侍史(じし)」「侍曹(じそう)」を用います。
【5】内容解説
今回ご紹介するのは、当館が所蔵している谷口直枝子宛の吉田茂の手紙のなかでは、最も古いものです。手紙の日付は、昭和21年(1946)6月7日。吉田が第一次吉田茂内閣を組閣したのが同年の5月22日で、今回の手紙は、吉田が総理大臣に就任した直後に書かれたものということになります。ですので、手紙のなかで「今回のこと」とあるのは、吉田の総理大臣就任を指すと考えられます。続く文面で、「私としては全く思いがけないことで、自分では思い量ることもできず、行き届かないことといつも自分を責め、思い煩っております」とあり、突然の重責に戸惑う吉田の気持ちが率直に記されています。
谷口直枝子は、当時千葉県の我孫子に疎開しており、吉田の手紙の文面にも「何はともあれ無事に疎開されたとのことをお聞きし、この上なく喜ばしいことと存じます」とあります。谷口夫人の疎開先は、大正2年(1913)から10年(1921)まで、夫人の弟である柳宗悦(やなぎ・むねよし)も住んでいた住居で、邸内に三本の大木があることから「三樹荘(さんじゅそう)」と呼ばれていました。柳宗悦が暮らした当時の我孫子は、志賀直哉や武者小路実篤など、白樺派の作家たちが集まり、交流の場となっていました。吉田のほかの手紙を読むと、谷口夫人を通じて、柳宗悦や白樺派の面々と吉田が交流していたことがわかります。
次回予告
次回は、7月2日(金曜日)更新予定で、吉田が柳宗悦の民藝館に訪問した際の手紙を紹介します。候文(そうろうぶん)の読み方についてもお話しますので、お楽しみに!
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更新日:2021年06月02日