「大磯宿」について
東海道五十三次の内、江戸日本橋より第八番目の宿場町
大磯宿には、尾上、小島、石井の3つの本陣がありました。
3つの本陣とも建坪は230〜250坪で、南本町東側にあった石井本陣は早く幕を下ろしますが、尾上、小島本陣は幕末までつづきました。尾上本陣は南本町地福寺入り口付近一帯に、小島本陣は北本町にあり、現在、それぞれに記念碑が建っています。
小田原宿から4里(16キロメートル)隔てたところが大磯宿です。
梅沢間の宿から二宮村、続いて国府新宿村、国府本郷村、西小磯村といつだ間の村を通り、西小磯村と大磯宿との間の松並木を過ぎると、大磯宿上方見附があり、加宿東小磯村の南台町へと通じます。
大磯宿は、この南台町から下り坂になり道が平垣になったところに字鴫立の石橋(鴫立橋)があり、これを越えると南茶屋町(石船町)に入ります。
この南茶屋町の右手奥には俳諧道場として有名な鴫立庵があり、そのはす向かい街道山側に高札場(南茶屋町)がありました。そこから町は、左手に折れ南から順に南本町、北本町となります。
この両町は大磯宿の中心で、両町は古義真言宗地福寺大門前と裏町(漁師町)へ通じる道がその境となります。地福寺大門前から214メートルほどで神明町です。神明町を入つてすぐの街道両側に火災の延焼を防ぐだめの「火除土手」が築かれていました。
江戸時代、大磯宿はたびたび大きな火災に見舞われています。なかでも宿内450軒が焼失した天保7年9月の大火、嘉永6年8月の漁師町家数380軒余のうち312軒を焼き尽くした大火などはよく知られています。
そのだめ火除土手は、安政2年に築き立てられました。字三沢土橋(三沢橋)までが神明町で、その先の緩やかな坂に差し掛かるところから山王町と続き大磯宿江戸見附に達します。
この見附を過ぎると化粧坂になり、その先が高麗寺村になります。
したがって、大磯宿は、南台町・南茶屋町・南本町・北本町・神明町・山王町の6町で宿内で構成されてあり、この6町で伝馬役を負担していたことが知られます。
大磯宿の隣村である東小磯村は、寛文6年(1666)の大磯宿検地帳(土地台帳)に「加宿東小磯」とあるところから、大磯宿の加宿であつたことがわかります。
この加宿を含む大磯宿は高675石余の宿で慶長6年(1601)に成立しました。
加宿というのは、伝馬制により馬役・歩行役なとの伝馬役の負担義務を負った宿が、その代償として免除されだ宿内の屋敷の地子だけではその費用を賄いきれなくなつた場合、幕府に願い出て許可を得て、加宿として宿に加え、屋敷地子の確保と同時に馬投・歩行役なとの天馬役を加宿に負担させることをいいます。
ところで、大磯宿は宿内南本町・北本町を東海道を挟んだ海側に裏町あるいは下町通りといわれた南下町・北下町があり、この2町で漁師町を構成しています。
この両町は、大磯をはじめ須賀・平塚・西小磯・国府本郷・国府新宿・二宮・山西など浦付8ヵ村の浦高札を掲げだ県下有数の漁師町でもありましだ。
また、廻船を持ち、魚介類については江戸新肴場へ付け出し、廻船は御城米・地頭米・年貢米その他商人荷物を積み出す県下官数の湊でもありました。
大磯宿の中心は、南本町と北本町です。
旅人に供される旅篭屋などの宿泊施設は、この両町をはじめとして南茶屋町をあわせた3町に大磯宿旅篭屋全体の9割方が集中したといいます。
また、飯盛女を置くことが許されていたのも南・北両本町のみでした。
また、伝馬役は通常、地子を免除された屋敷の間口に応じて賦課される間口銀によつて賄われます。この間口銀は、間口の広さと負担者の持高に応じて賦課されるのですが、通常、この間口銀は宿の中心ほど高額であるといわれています。
大磯宿宿場絵図によれば、地福寺大門両側か最も高く、概ねこの中心部から離れる毎にだんだんと下がるる傾向にあることかわかります。しかし、その下がり方は南本町と北本町とではー様ではなく、神明町より南茶屋の方か高くなっていることがわかります。
大磯町郷土資料館・平塚市博物館発行
東海道宿駅制度400年記念巡回展
「二宮・大磯・平塚を結ぶ道−東海道−」より抜粋
経済観光課 内線264
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