高来神社(高麗神社) ・ 高麗山

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江戸時代には大名が下馬して参詣。
家康の神影に導かれ鳥居を潜れば自然神秘に打たれる感覚が…。

高来神社(高麗神社)

徳川家康の神影である東照宮が併せ祀られ、諸大名は参勤交代の折に馬を下りて参詣した神社です。

高麗1

縁起

中世に書かれた「箱根山縁起」には、神功皇后の三韓征伐(新羅出兵)に勝利した際に、重臣の 武内宿禰(たけうちすくね)が高麗大臣和光を奉ったとされています。
漁民により海中から引き揚げられた千手観音を高麗権現の本地佛として定め、山頂の高麗権現と下宮の千手観音を併せ祀り、高麗寺別当(高来寺)の司る所になりました。

高麗2

鎌倉時代には北条政子の安産祈願のため神馬を賜り、寺背後にそびえる高麗山中には24の末院がありました。
曽我十郎の恋人、虎御前が出家した寺です。

虎御前…大磯の遊女。『曽我物語』の主人公、曽我十郎の恋人。 生涯を十郎の鎮魂に捧げる。

大磯の虎女

室町~南北朝時代

足利氏の内乱で高麗山が攻防の場となり、戦国時代には北条早雲が小田原城攻めの際に篭城したことで一躍有名になりました。
その後、上杉謙信が高麗山に本陣を置くなど、戦火の火中に巻き込まれ衰退していきます。

高麗3

江戸時代

徳川家康より寺領百石と山林を賜り、東照権現を併せ祀ります。東照宮は徳川家康の神影であるため、参勤交代の諸大名は高来神社の前を通る際には下馬して参詣しなくてはなりませんでした。
上野寛永寺(徳川家光開基、徳川将軍家の菩提寺)の末寺であり、寺の復興には寛永寺の天海の働きが 大きかったと言われており、寛永寺から転じた別当は47世続きました。

明治時代

神仏分離により高来寺の寺物は移され、高麗神社と改称、明治30(1897)年に高来神社と改称され、現在に 至っています。

高麗4

参考資料:高来神社(高麗寺)の由来 高来神社境内掲出物

 

関連リンク

高来神社

高麗山

江戸時代末期までは山全体が高麗寺の霊域として保護されていました。

高来神社の背後にそびえる山が高麗山です。

“高麗”の名の由来を探っていくと、『新編相模風土記』に「高麗の名は、古く当地辺りに高麗人が往したところにちなむ」とあり、『箱根山縁起』には「神功天皇が三韓を討った後、三韓の神を日本に還して祀ったが、その中に高麗大臣和光を当州に還し奉り、その山を高麗山と名づけた」とあります。

*三韓・・・百済、新羅、高句麗のこと。高句麗の高麗大神を大磯に祀った。

高麗5

日本に難を逃れたてきた人も多く、その中の高句麗国の官人に 若光(じゃっこう)という人物がいました。来日中に母国が滅びたため、若光は帰国せず日本で官人となりました。

時を経て、若光一族も含めた関東の各地にいた高麗人は武蔵野国に集められ高麗郡が設置され、若光はその郡令に任命されました。

高来神社「御船祭」の木遣歌「権現丸」で「高麗国守護」が渡来して、「大磯浦の守護」となる

とうたわれることから中世以降高麗寺では、なにかしらの関係を伝承していたと考えられます。

また、高句麗からの渡来人伝承から「高麗山」の名前がついたといわれています。

高麗6

高麗山は標高約160m、相模湾より相模一国をことごとく見渡すことができ、三峰からなります。江戸時代末期までは山全体が高麗寺の霊領域として保護され樹木の伐採が禁じられていました。明治期には宮内省官吏の御料林となり昭和13年に神奈川県に下賜されてからも引き続き保護されてきました。

しかし、戦中・戦後の資材確保のため山の北から東斜面の樹木は伐採されてしまい、江戸から続く植生は南斜面に残っています。

高麗7

高麗山は現在、高来神社から続くハイキングコースになっています。

高麗8

関連リンク

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