添田唖蝉坊

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超人気路上シンガーソングライター

添田唖蝉坊

『のんき節』の♪ アハノンキダネ ♪ 『マックロ節』の♪ マックロケノケ ♪ 『むらさき節』の ♪ チョイトネ ♪ 『ブラブラ節』の ♪ ブーラブラ ♪…など そう !!  一度聞いたらなかなか忘れられないフレーズ、これらの歌を作った演歌師こそが添田唖蝉坊。 政府や権力者をとがめ、社会の矛盾を風刺した歌詞を作り、うっぷんや怒りを歌によって主張することを庶民に教えた人、大衆音楽の生んだ最初のヒットメーカーこそが 、<流行歌の元祖> と称され自らを<演歌中興の祖>と自負していた、添田唖蝉坊なのです 。

演歌の元祖 「添田唖蝉坊ストーリー」 のはじまりはじまり~

明治5年(1872) 

唖蝉坊誕生。 本名は平吉。 大磯の中農生まれ。

添田唖蝉坊

私は百姓の家に生まれながら、幼少の頃から性質がどこか貴族的でわがまま者であった。
それに怠け者であった。食物なども周囲の者より贅沢な方であった。

添田唖蝉坊

幼少にして「国史略」「日本外史」をそらんじ、水泳唱歌をよくす。
(唖蝉坊顕彰会作成年表による)
野良の火遊びで山火事を起こしそうになり、村中を大騒ぎさせる。
相当活発な子で、父親も困り果て、村にはおいておけない。

明治18年(1885) 

唖蝉坊は東京深川の叔父の家に預けられる。

大磯駅開業は明治20年。東海道線がまだ大磯までつながっていないので、唖蝉坊は神奈川駅で初めて汽車に出会いました。

明治23年(1890) 

横須賀で生活していたが、青年倶楽部に属する壮士の歌う街頭演歌(壮士節)に感動!!

壮士節とは・・・ 壮士の歌う演歌のこと。
この時期、明治新政府は自由民権派の指導する反政府暴動に対し武力や言論統制などで徹底鎮圧していました。自由民権派の開催する演説会はことごとく叩き潰されるので、窮余の策で街頭で歌う形式をとるようになり、そして演説に代わる“演歌”という新語ができました。

添田唖蝉坊

壮士の奴めはずるずると私を引きずっていった。どこへ引きずっていったのか。
私の幼稚な人生観なるものを、根底から変えさせたのもこの壮士歌であった。

明治25年(1892) 

唖蝉坊も青年倶楽部に入る。

政治活動にも携わったが次第に純正演歌を志向するようになる。

処女作「壇の浦」

明治31年(1898) 

弟の呉服商売の失敗から、大磯の実家が借金をかかえる。
唖蝉坊大磯へ帰郷。

添田唖蝉坊

歩いて出た郷里の町へ、今度は汽車で横付け。
明治18年に海水浴場ができ別荘というものがはやりもののように沢山できていて、まだまだいくらでも殖えようという形成が見えた。私たちが学校へ通う時分に登って遊んだ愛宕山は半分以上が切り崩され、愛宕神社は下へおろされ、その後は安田善次郎の別荘ができたり、外人の別荘もできている。大磯は「別荘」に全然占領されているのだ。

大礒

実家では別荘地として最も適当な「上ノ山の畑5、6枚」を売ることにした。
兄の辰五郎は「相模灘に面し、右に富士山、伊豆半島、左に三浦半島、煙り吐く大島等々眺望良く、夏涼冬暖」という文句をならべて図面を作り、唖蝉坊が東京・横浜で売り込みに奔走しました。

添田唖蝉坊

「本郷の南の家」と呼ばれて幾代も続いてきた家、屋敷、椎、栗、椿などの大樹に囲まれた庭の広い家、横面から裏へかけ深い濠をめぐらして、竹藪、筍も出る、季節々々の果実の楽しかった子ども時代が懐かしい。これが人手に渡り、伐りくずされ、全部畑にされた跡を見て郷里の人たちが「本郷の地形(さま)が変わってしまった」と言うのを聞いた。弟の飲んだくれが実家をつぶした。

「ストライキ節」

明治33年(1900)

収賄がまかり通り、すべて金で動く世潮に切歯。 節操を失った政治に失望、青年倶楽部のメンバーは散り散りになってしまうも、唖蝉坊はひとり演歌の活動に残る。 演歌者は唖蝉坊とその弟子のみになる。

明治34年(1901)

結婚。妻は茅ヶ崎出身のタケ。 翌年、息子 知道誕生。 義兄のすすめで茅ヶ崎にレース工場を始めるが、半年で事業失敗。 名古屋・岐阜・京都・大阪など関西方面を旅し、底流階級を知り人間諸相を見る。 この頃、俳句を始める。 唖蝉 = 俳号  意は"歌を歌う唖しの蝉" 同じ俳号の人がいたため、明治39年より"坊"をつけて 唖蝉坊 と称する。

明治38年(1905)

知り合いの流し演歌師の「渋いのばあさん」から 演歌の文句は難しい と言われる そしてできた曲が 「ラッパ節」 ♪トコトットット♪

明治39年(1906年)

日本社会党評議員になり、「官憲の注意人物」と自らの名刺にも記す。 「ああ金の世」 地獄の沙汰も金次第 一も二も金 三も金 夫婦の縁を切るも金 我利我利亡者と罵ろが 金になりさへすればよい 遠慮していちゃ身がもたぬ 「ああわからない」 「あきらめ節」

明治42年(1909)

大磯の実家の父が死亡。 兄の商売もうまくいかず、家屋敷を渡辺平兵衛に売る。 大磯には母残る。 ほぼ完全に近い宿望の発現を得た。しばらく演歌に打ち込む気になった。

明治43年(1910)

妻のタケが死去。

息子の知道を大磯の実家に預けるも半年で連れ戻す。

添田唖蝉坊

政治運動の具としてではなく、ますますもっと人間の心を歌いたい、民衆の生活に触れたものを歌にしたい。
歌を真の「歌」の道に引き戻したかった、過去の演歌はあまりにも壮士的概念むきだしに「放声」にすぎなかった

♪チョイトネ♪「むらさき節」誕生

演歌の芸術的精進 「むらさき節」は一世を風靡。演歌の黄金時代に突入!!

♪マックロケノケ♪

「マックロ節」 箱根山 昔にゃ背で越す籠で越す 今ぢゃ夢の間汽車で越す 煙でトンネルはマックロケノケ

♪アハノンキダネ♪

「ノンキ節」 貧乏でこそあれ日本人はエライ それに第一辛抱強い 天井知らずに物価はあがっても 湯なり粥なりすすって生きている アハノンキだね

大正7年(1918)

演歌組合親交会を設立主宰 演歌者の職業人としての公認を得る運動、演ずる場所の解放運動等を起こし成功 翌年『演歌』を発行。演歌に対する認識改善と、演歌者の技能向上に資する。

「デモクラシー節」「松井須磨子の歌」

「ベラボーの歌」「ヨカッタネ節」

「金々節」
金だ金々 金々金だ 金だ金々 此世は金だ 金だ金だよ 誰がなんと言ほと 金だ金々 黄金万能  

息子の知道が処女作『東京節』を発表

昭和5年(1930)

「生活戦線異状あり」 を発表。最後の曲となる。

生涯182曲を発表。

昭和19年(1944)

2月8日 死亡。

今に歌い継がれる唖然坊演歌

小沢昭一さん

東京・下町育ちの小沢昭一さんは大の唖蝉坊ファン。歌う姿を目にしたことはないが、写真館を営む 明治生まれの父親が鼻歌まじりでよく口ずさむのを耳にしながら育ったそうです。
庶民の声を代弁し、権力や権威、特権階級を風刺してやまない心意気に引かれ、自らも「ストライキ節」 などを歌い、CDに収録しています。
『唖蝉坊は生きている』(KING RECORDS)で小沢昭一さんの歌声を聞くことができます。

岡 大介さん

フォークシンガーの岡大介さんが一番好きな曲は『あきらめ節』。20歳の頃に高田渡氏が歌うレコードを聞いて、心にズシンときたそうです。
2009年7月には浅草で独演会を開催し、空き缶で作ったカンカラ三線を手に、約2時間唖蝉坊の演歌を歌いました。

ロックバンド「ソウル・フラワー・ユニオン」のリーダー 中川敬さん

90年代前半に唖蝉坊の歌を知り、曲目の一つとして歌い始めました。実際に歌ってみて気づくのは、やはり聴く人たちを鼓舞するものがあるということだそうです。
95年の阪神大震災直後には避難所などで100回以上の出前ライブを行い、戦前戦後の流行歌や唖蝉坊の演歌を歌いました。

 

参考資料

『唖蝉坊流生記』 添田唖蝉坊 著
『添田唖蝉坊 知道』 木村聖哉 著
『唖蝉坊は生きている』 KING RECORD
2010年7月26日、27日朝日新聞 『ニッポン人・脈・記』

注意:インターネットの制約上、唖蝉坊 と表記しております。

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