新島襄終焉の地碑

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新島襄終焉の地碑1

新島襄は同志社大学の前身、同志社英学校を開設し、その後同志社大学設立を企画していましたが、病のため早くに世を去ってしまいました。
早稲田大学の大隈重信、慶應義塾大学 ( 前身 ) の福沢諭吉とともに明治の三大教育家として知られています。

※ 人物写真は国立国会図書館ウェブサイトより転載

大磯とのかかわり~愛松園~

潮湯治、医療の目的で大磯海水浴場が1885年に松本順により開設されたことからも想像できるように、大磯海岸の潮風は病弱の人の療養には活路を開くあこがれの地であったようです。
新島襄は以前から大磯に来たいと思っていたようですが、明治22(1889)年11月、病に倒れたのを機に知人の勧めもあり、同年12月28日、大磯で静養し再起を計ることになりました。
海岸に程近い百足屋 ( むかでや ) 旅館の、松林に囲まれた別館の愛松園にて静かに療養され、近づく春の訪れを待っていられました。

愛松園は現在はありませんが、愛宕神社の丘陵つづきの高台にあり、大きい松が高くそびえ相模湾の眺望のよい処で園内には梅の古木がたくさんありました。

 「庭上の一寒梅笑って風雪を侵し開く、争はずまた力まめず、おのづから百花の魁を占む」

また、明治23(1890)年、病床にて筆をとりて  
「送歳悲しむことやめん
病弱の身鶏鳴はやすでに佳辰を報ず
劣才たとい済民の策に乏しくとも
なお壮図を抱いて此の春を迎う」

愛松園にて再起の希望を持ち療養していましたが、明治23年1月20日危篤に。
妻の新島八重も東海道線に乗って大磯にやってきました。
「グッドバイ、また会わん」
襄が八重に送った最後の言葉です。

襄は1月23日午後2時21分、46歳11ケ月の生涯を閉じられ、大磯が終焉の地となりました。新島襄が危篤におちいったという電信を受けた愛弟子の徳富蘇峰は、新橋駅から急いで汽車に乗り駆けつけましたが、すでに生死の境をさまよい取るすべもなかったとなげかれていたそうです。

                    ※引用・参考資料 『ふるさと大磯探訪』 高橋光著 

新島襄終焉の地碑

新島襄終焉の地碑2

昭和15(1940)年、新島襄の門下生が集い、 旧百足屋の敷地内に碑を建てられました。
徳富蘇峰の筆による。

新島襄終焉の地碑3

新島襄碑前祭

毎年、命日の1月23日に同志社の方々が多数集まり、大磯町の関係者とともにご冥福をお祈りします。

※ 引用・参考資料 『ふるさと大磯探訪』 高橋光著

行き方:大磯駅より徒歩5分(国道1号線沿い)

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